学習院大学名誉教授 戸松秀典
散歩中に、すれ違う子ども達のにぎやかなおしゃべりを耳にすると、明るい気分となります。とりわけ、午後の早い時刻に帰宅する低学年の児童たちは、甲高い笑い声を発し、ふざけ合って、小刻みに走ったり追っかけたりして、まったくにぎやかで、エネルギッシュなので、ついこちらもにこにこして、歩調をゆるめて眺めることがあります。
ところが、午後でも小学校の放課後の頃に散歩をしていると、自転車に乗ったり駆け足をしたりして、街中にある学習塾に向かっている子どもによく出会います。下校時の子どもたちは、おしゃべりをしたり絡み合ったりして楽しそうなのに、塾に向かうときの顔つきは、かたい表情で、連れ立って早足の者も、無口か簡単な声掛けくらいしか発せずに、建物に入っていきます。だから、これから塾で過ごす時間は、緊張感に満ちたものではないかと想像してしまいます。自分が子どもの頃は、田舎で過ごしていたし、また、当時の状況がそうであったからですが、放課後は、ひたすら皆と遊んで過ごし、塾に行くことなどなかったことを思い出し、この違いを強く感じてしまいます。
そのような自分の回顧はさておき、いくつかの学習塾が散歩の道に点在していて、そこが盛況らしいことに関心を向けます。そして、そこに通う子どもの姿を目にすると、学校での教育のことと塾での勉強とを対比しながらあれこれ考えてしまいます。
子どもの教育といえば、日本では、明治期に近代国家の仲間入りをする以前から社会に浸透していたといえます。江戸時代には、よく知られているように、寺子屋や手習い所で、子どもたちは、読み書きや作法を教わり、大人になって生活していくための技能を身に着けていました。また、識字率が諸外国と比べて高い方であったことも、有名ですから、私がここで詳しく述べる必要はないでしょう。ただし、すべての子どもが寺子屋や手習い所で学べたわけでなく、また、そこに通える境遇が限られていたことを無視できません。したがって、明治期になり、国が義務教育制度を設け、すべての子どもが教育を受けることができるようになったので、子どもが教育を受ける状況は大きく変わりました。さらに、日本国憲法のもとでは、人権としての教育を受ける権利を26条でうたい、民主主義国家の法制度が整っております(注1)。
(注1)明治憲法には、教育を受ける権利の人権規定がなく、教育権力は、天皇大権の一部であり、教育が天皇の発した教育勅語を軸に実施されたので、非民主的であった。これに対して、日本国憲法のもとでは、教育基本法を基盤として、国会が制定した教育関係諸法律の下に、教育が実施されている。後述のように、学習塾での教育は、この国の教育法制度の外にあるが、それとは無関係でないことに注目しています。
このように述べてくると、いつもの散歩に伴うやわらかい憲法の話から離れそうですが、これは、上記の学習塾の存在にかかわる法基盤を簡略ながら示したかったからにすぎません。
そこで、学習塾ですが、そこで学ぶことが大人になって生活していくために有益であるからで、これは、寺子屋や手習い所と共通しているように思えます。しかし、今確認したように、国がすべての子ども教育を担っているから、もう必要ないといえそうです。それなのに、繁盛しているのは、よい中学校に入りたいという需要に応えるためです。偏差値の高い学校に合格するために、現在通っている公立小学校での勉強では十分でないとの保護者の判断に基づき通っているようです。中学校の先の高校や大学についても同じ傾向がつづきますが、それについてはまたの機会にとりあげたいと思います。
もう一つ、手習い所と学習塾との共通点をあげると、授業料が必要だということです。子どもたちが小学校に通うのに授業料は払う必要がないが、学習塾には、親や保護者が授業料を支払わねばならない(注2)。そして、江戸時代の手習い所は、莫迦にならない額の束脩(そくしゅう)(授業料)や謝儀がかかるとのことを何かで読んで知っており、これは、学習塾と同じだといえるのです。
(注2)憲法26条2項後段で、「義務教育は、これを無償とする」と定められているとおり、私立学校に通う場合は別として、授業料はない。もっとも学校では、教材費や給食代などいろいろ費用がかかるが、それに関する議論はまたの機会にしたい。幼稚園から生涯において、教育が無償となっているフランスやオランダの例を耳にしたが、そのような外国との比較を含め、多種多様な議論が必要です。
さらに、学校教育は、文科省の制定した学習指導要領に従う必要がありますが、学習塾での教育内容については、塾独自のやり方で行われており、これも寺子屋や手習い所と共通するといってもよいと思われます。
散歩中に、学習塾とそこに通う子どもたちを見て、脳裏にある学校教育に関する問題が浮かび上がってきます。その代表例をあげておきます。 まず、学校教育には、教育の均一主義、個性の抑制、形式主義といったことを特徴としてあげてよいと思います。同一年齢の子どもが段階的に6年生まで上がっていきます。この方式が学校というものだと広く受け取られているので、これを問題とすることは奇妙だと思われるかもしれません。しかし、個人の能力差や性格の違いは否定できない事実なのに、なぜ、年齢ごとに画一的に学力の進歩が要求されるのか、おおいに疑問ですが、明確な答えが示せるのでしょうか(注3)。
(注3)実は、フランスの小学校では、一つのクラスに年齢の異なる子どもが所属していて、互いの進歩度合いの違いを認識しながら学んでいるということを聞いて、感心するとともに私の疑問がおかしいことではないと思っています。
ところが学習塾は、どこも個別指導を強調して、それを売り物としています。均一の集団教育をする学校に対抗するつもりのようです。しかし、それは、勉学面でのことであって、教育の内容として軽視してはならない人格形成の面には配慮していないように推測しています。試験突破が主目的なのですから。
もう一つあげたい問題は、自己の意見を述べ、上手に対話する能力が日本の子どもは劣っているということです。これは、よくなされる指摘です。私も、2004年から担当した法科大学院での授業において、いわゆる対話式授業(ソクラティック・メソッド)が当初機能せず、苦労したことがあります。子どもの頃から学校において馴染んでいなかったことが原因です。2008年になされた学習指導要領の改訂において、これへの対処が取り込まれたので、今後変化することが期待されます。自己主張能力や会話能力が向上した政治家が活躍するようになれば、本欄で控えめに指摘してきた憲法秩序の形成過程上の問題が解決されるのではないかと思います。
今回とりあげたテーマは、関連する問題が多いうえに、それに関する立場や見解の違いなど多様であり、読者の方も、それぞれ独自の考えをお持ちであると思っております。それ故、以上に述べたことは、話題の提供であり、論議の展開への単なる引き金にすぎないことは十分承知しています(編注)。
(編注)
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●著書等
『プレップ憲法(第4版)』(弘文堂、2016年)、『憲法』(弘文堂、2015年)、『憲法判例(第7版)』(有斐閣、2014年)、『論点体系 判例憲法1~3 ~裁判に憲法を活かすために~』(共編著、第一法規、2013年)、『憲法訴訟 第2版』(有斐閣、2008年)など著書論文多数。
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