学習院大学名誉教授 戸松秀典
現在の社会は、異常な状態が顕著だといっても過言でないようです。そこで、そのことの一端を示す出来事を紹介し、それをめぐって少し考えることにしました。
その出来事は、先日のある集まりで、話題の種となったことです。ただし、それについて強い議論が展開されたわけでなく、同席の人たちが高齢者であったためもあり、昔と違って、今の世は異常だという感想を確認し合って終わったのでした。
その出来事とは、出席者の甲さんが最近体験したことです。
甲さんは、その会合の一週間前に、自転車で、石畳通りを走って帰る途中、人が倒れていて、その傍らに小柄で細身の老女性がおどおどしている場面に出会いました。甲さんは、急ぎ自転車を止めて、近寄りました。倒れていたのは、高齢の男性でした。大柄で、骨折していたのか三角巾で左腕をつっていたので、これでは自力で立ち上がるのが難しいだろうとすぐ判断して、「お助けしましょう」と声をかけました。奥さんらしいその老夫人は、「すみません、お願いします。今、近くの図書館にいくところですが、急に足がもつれて転んでしまい・・・」などと説明をし始めました。甲さんは、それを聞きながら、「とにかくがんばって立ち上がって下さい」と励ましながら、自分より大分重そうなその高齢者を後ろから抱えて持ち上げました。幸いすんなり立てたのですが、立ち上がるとすぐ、その高齢者は、奥さんの方に強いことばで、「ごちゃごちゃ言ってないで杖を渡せ」と命じ、なかなか立派な杖を握るとゆっくり歩き出しました。甲さんは、胸の内でこの人は昔風のえばり屋の亭主だなと感じながら、「じゃあ気を付けて」と声をかけると、その高齢者は、「どうもありがとうございました」と道をみつめながら礼を言って、図書館方向にのろのろ足を運んでいきました。その時、若いマスクをした女性が手助けしようと自転車を止めて近寄っていること、背後に、宅配便の若者が大丈夫ですかという顔つきで立っていることに気付き、「もう大丈夫みたいです」と甲さんは両者に伝え、自分の自転車のサドルにまたがり、まあちょっとした手助けをしたという気持ちで走り出しました。
さて、この出来事は、今年(2020年)の夏のことですが、1年前でしたら、ここでとりあげるほどの美談でもなかったでしょう。しかし、今では、少々深刻な問題がかかわっていると言わざるを得ません。それは、甲さんが帰宅して、やや自慢げにその出来事を話すと、家族から、思いもしない激しい叱責を受けたからです。
それは、甲さんがマスクをしていないのに知らぬ人と話をしたこと――常にマスク持参で外出していたのに、その時は、背中のリュックに入れたままだと、甲さんは、家族の追及に白状しました――、ソーシャルディスタンスを保つべきなのに、禁止の対象である三密の一つをしたこと、そもそも現在の外での行動で念頭においておくべきことを全く忘れていたこと、親切をしたなどと軽薄な自慢をしたといったことです。こうした叱責を浴びて反論の余地なく、甲さんは沈んでしまったそうです。
そこで、これは、今の社会が異常な状態になっていることを示しているとの強い印象を抱いて、ここで紹介してみようと思った次第です。
新型コロナウイルスの感染問題が、異常な社会現象を生んでいることについては、第32回「新型コロナウイルス感染問題」と第34回「新型コロナウイルス感染問題・再論」の本欄ですでに扱いました。
そこでも言及したように、これまでに体験したことがないような状態を社会では生じさせています。
今回のこの紹介した出来事は、社会での、特にコミュニティー(地域社会)での人の交流にかかわることです。甲さんがとった行動は、従来なんでもなかったのに、それが抑制され、否認されるようになると、社会秩序に大きな変化を生むおそれがあります。
このおそれは、報道で知った次のような事例をみるといっそう強くなります(注1)。
一つは、コロナ禍が広まっているこの時期に、郷里の家族のことが気がかりであるのに帰郷を抑制していたが、心配のあまり思い切って帰ってみたら、翌日、家の外に、「早く東京に帰れ」と書いた貼り紙がしてあり、驚くとともに心痛に耐えられなかったということです。
私も、田舎から上京した身で、若い頃に東京から帰ると田舎の人たちが暖かく迎えてくれるのが常でしたから、この事例の報道をみて、異常事態だと感じました。
(注1)報道事例の新聞、ネットなどの所在を具体的にあげることを省略します。
また、先島諸島のように、観光客で賑わい、島の経済発展が顕著となっている近年の傾向が、やはりこの度のコロナウイルス感染問題に出会って後退していることにも注目させられます。
人口の少ない島では、住民はみなよく知り合った仲間ですから、ウイルス感染防止にきわめて神経質になり、長年かけて築いてきた島の住民のつながりが崩されないように配慮するのは当然です。
とりわけコロナウイルス感染から護ってあげるべき島の高齢者のことを思うと、島への客を受け入れて、島の経済状態を優先するなどとの決断は絶対しないと語る島のリーダーの談話を知りました。これも異常であるといえます。
他にも異常だと言えることが起きていて、それを網羅的にあげることができませんが、先に紹介した出来事と無縁でない状態が生じて、対処の仕方に戸惑っていることは少なくないようです。
この異常状態が一時的だ、間もなく消えて社会の様子が元に戻ると予測できるのなら問題ありません。しかし、コロナウイルス感染問題がそのように安易な予測を許さないことであると認識されています。
そこで、本欄の基調である憲法・国法秩序のあり方についての観察に思いを向けたくなります(注2)
(注2)憲法学者・憲法研究者の中には、公権力と関係がない法的問題は憲法問題でないと主張する立場があり、それによると、はじめに紹介した出来事が憲法問題でないとされます。私は、そのような議論領域の限定――日本の学問領域主義の弊害――に意義を認めませんが、ここでそれについて詳論する余裕がないので、議論は省略します。ただし、以下に述べるところをみれば、先にあげた出来事が私の問題の見方に基づいていることが明らかとなるはずです。
異常状態がつづく現在、もっとも気になることは、異常状態が常態化することです。
先に紹介した出来事について、人が倒れているところに、救護の専門家以外の一般人が手を出すことがない、つまりウイルス感染防止のため通常の人にとって成り行きを観察するだけが通常の状態となったら、地域社会の人間関係は、冷ややかな状態となってしまいます。
これは、そもそも人権保障理念の根底にある社会の通常状態でなくなります。助け合いや思いやりを交わすのが、地域社会では当たり前のことだと受け止められていたはずです。道で倒れている人に声掛けをして手助けすることを取り立てて論議することのない世の中であって欲しいのです。
そこで、現在浸透している異常事態が常態化しないようにするにはどうすればよいのか、容易に答えが見つからないことを承知で、考えておきたいと思います。
まず、帰郷者に帰れと命ずる、いわゆる自粛警察は、新型コロナウイルスの感染に対する恐れが生み出しているのですから、自粛警察を批判、攻撃するよりも感染の恐れ自体を無くすることが最良の策です。しかし、これは、ウイルス感染の専門家が説いているように、容易なことでなく、短期間で達成できそうもありません。
そこで、国の役割つまり政府の政策実施としては、感染の恐れに伴い生じている困難な問題を多様な立場に配慮して解消するように努めるしかありません。その配慮の例として、経済面での助成がなされ、Go To トラベル、とかGo To イートといったキャンペーン・標語をかかげた施策がなされようとしています。それはそれなりに意義があるでしょう。しかし、それが観光地への観光客の増加を一律かつ単純に考えているのなら、先にふれたように、島民の互いの思いやりの存在を視野にいれているのか疑問となります。
そこで、経済活動の復活といっても、地方の個別の事情を考慮することが重要だと思われます。これに対して、国の政策は、一律に、また均等になされがちですが、平等な施策のようのようにみえても、実際には、個別の事情との関係で、不都合あるいは残酷とさえいえる行為となりかねません。そこで、地域社会の特別な事情を取り入れた政策が望ましいと言えます。
新型コロナウイルスの感染防止対策の実施状況をみると、各自治体独自の個別の事情に対応した政策が効果をあげるようだと観察できます。
どうやら、初めにふれたある出来事から出発して、地域社会の温かい人間関係の存続を求め、さらに、自治体の独自の施策が構築されるべきというように話が広がってきました。そこで、次には、今注目し、再検討すべき自治体の行政の在り方に焦点をあてる予定です。
■筆者後記
冒頭の写真は、筆者の手元にあるいろいろなマスクです。
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●著書等
『プレップ憲法(第4版)』(弘文堂、2016年)、『憲法』(弘文堂、2015年)、『論点体系 判例憲法1~3 ~裁判に憲法を活かすために~』(共編著、第一法規、2013年)、『憲法訴訟 第2版』(有斐閣、2008年)、『憲法判例(第8版)』(有斐閣、2018年)、など著書論文多数。
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