6月19日、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第24話では、大姫(南沙良)が登場し、父である源頼朝(大泉洋)から京都の公家との縁談話を持ちかけられる。亡き許嫁・源義高(市川染五郎)を慕い続ける大姫はその縁談を歯牙にもかけない。後には後鳥羽天皇への入内(じゅだい)すら拒み、20歳で早世してしまうのだが、その死についてはこれまであまり描かれて来なかった。今回は、大姫の死とその描かれ方について紹介する。
大姫が縁談を断り続けるそもそもの原因は、許嫁であった木曽義仲の長男・義高が頼朝に殺され、気を病んでしまったことにある。幼い日の儚い恋が、大人たちの事情で引き裂かれる――さながら『ロミオとジュリエット』のような悲しい恋の物語は、これまでも鎌倉時代を舞台にした創作でしばしば取り上げられてきた。ところが、そこで大姫の人生が最後まで描かれることは少ない。
『鎌倉殿』以前に放送された大河ドラマで大姫が登場したのは、40年以上前の1979年の『草燃える』以降では、2005年の『義経』が唯一だ。だが、『義経』はタイトル通り義経が亡くなるところで終わってしまうので、大人になった大姫の姿は描かれない。また、マンガ『ますらお 秘本義経記 大姫哀想歌』(北崎拓)には大姫が語り手として登場するが、こちらも大姫が子どもの頃でストーリーが終わってしまう。
これまで大姫は、義経が主人公となっている作品や、大姫の視点から幼い日の恋を扱う少女向けの作品で描かれることが多かった。そのため、『鎌倉殿』のように、大人になった大姫の姿やその最期が、第三者の目線から現実的に描かれるのは大変めずらしいことだと言える。
また、大姫の死は、『鎌倉殿』終盤の歴史の動きにも大きく関わっている。
『北条政子』(関幸彦)によれば、当時、京都政界は九条兼実率いる親幕府派と、その支配に反発する反兼実派に分かれて激しく対立していた。そしてその勝敗は、どちらの派閥の女性が先に後鳥羽天皇の子どもを産むか、ということで決まることになっていた。だが、運次第の子作りに人生の命運がかかるという状況は、双方の派閥にとって不安が募るものだった。
もしここで、どちらの派閥にも属さない大姫が後鳥羽天皇の子どもを産んだ場合、勝敗はうやむやになり、どちらの派閥もそれなりの地位を保つことができる。また、頼朝や政子からしてみれば、自分の血筋が皇室に入ることになり、断る理由はない。大姫の入内は、各勢力にとっての「保険」や「安全装置」にちかいものとして扱われていた可能性が高いという。
しかし、大姫は入内が実現しないまま亡くなってしまう。そして、反兼実派の女性が皇子(後の土御門天皇)を産み、九条兼実は失脚、親幕府派は京都政界から一掃されることになる。結果、朝廷と幕府は対立を深めていき、その対立は、『鎌倉殿』のクライマックスで描かれると思われる承久の乱へと繋がっていく。大姫が生きていれば、承久の乱は起こらなかったかもしれないのだ。
幼い頃から政治に翻弄され続けた大姫。その最期は具体的にどのようなものだったのだろうか。
実は、鎌倉幕府の公式歴史書といえる『吾妻鏡』では、大姫が亡くなったと思われる建久七年から九年にかけての部分が欠落していて、真相は分からない。そのため、暗殺、自殺、病死など、さまざまな推測がなされている。
これまであまり描かれて来なかった大姫の最期。三谷幸喜さんがどのような描き方を選ぶのかに注目すると、ドラマを観る楽しみが一つ増えるかも?
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