タイトルを念頭に本書を読み進めていくと、その内容に意表を衝かれる。村上靖彦さんの『客観性の落とし穴』(筑摩書房)は、そんな本である。
一見、近代合理主義を批判する科学哲学の固い内容かと思って読んでいたが、昨今、しきりに報道のテーマとなっているヤングケアラーへのインタビューなどが登場し、その重い「経験」の語りに圧倒される自分がいる。
6月に書店に並んだ後、重版を重ねている理由は、現代の日本社会を覆っている息苦しさの正体を明かしているからだと納得した。それは「客観性」を過度に「真実」と信じてしまっている私たちの中にあることもえぐり出していることに気づかせてくれる。
本書はまず、近代という時代が科学の時代であり、それは測定と統計、論理を基にした「客観性」が普遍的な真実と信じられることを前提として、自然科学から社会科学、そして人間の内面までを扱う精神科学にまで貫かれていることを概観する。
その後、日本の学校教育でなぜ偏差値がこれほどの強力な力を持っているのかという身近な話に始まり、ダーウィンの進化論に淵源を持ち、ナチスドイツで極端化した「優生思想」にも「客観性」の罠があることを詳述していく。
統計などを含む「客観性」は、国家による統治に役立つことを数値で示すことに結び付いた。とくに日本では、第2次大戦までは、役立つことが「軍事」という基準だったが、戦後は、その基準が「経済」に移ったという指摘もある。
ここでハッとさせられるのは、現在の日本の障害者支援のゴールが「就労」になっていることの意味だ。それが「生産性」という言葉に置き換えられて起きた「やまゆり園」の入所者大量殺害事件のような悲劇についても分析を加えている。
自己責任や自由化という言葉は耳あたりがいいし、そのことを否定する理由もないように思っている日本人は多い。とくに若い人ほど、偏差値教育と就職氷河期の経験を経て、ますますこの傾向が強くなっているようだ。
しかし、自分は正当な競争の中で懸命に努力していると思っていても、それは企業、ひいては国家という統治のための競争であり、それに都合のいい「客観性」に支配されているだけだということを本書はあぶりだす。
そうした思考回路では、働かない(働けない)人たちに生活保護を支給することは「生産的」ではない=無駄だ、という思想につながっていく。しかし、それは多数派に属する人々が統治者の論理を無意識に内面化しているだけで、自分が「少数者」「弱者」の側にいるという想像力はない。
そうしたなかで、村上さんは自分が取り組んでいる「弱い側」「取り残された側」にいる人たちへのインタビューを、語られた言葉通りに、その表現の乱れや揺れをそのまま記録し、そこから「標準化」されない個別の「経験」の重要性を分析していく。
冒頭に触れたヤングケアラーのインタビューもその一つだが、多くの生々しい経験とその語り口を本書でぜひ、体感してほしい。統計数値や学術論文的に表現されるヤングケアラーや児童虐待、ネグレクトなどの問題とはまったく違った実相が伝わる。政治を含む社会がこうした問題を解決するには、「客観性」の視点だけでは不可能なことがよくわかる。
大学で学生に接している村上さんは、学生たちの客観性に過度に依存する思考回路に危惧を覚えてこの本を書いたという。だれもが統計に還元される前は、ひとりひとり個性の違う人間であり、その経験も個別の一回限りのものであることを認識して、問題を解決することができないかとも指摘する。
そうしたなかで選択したインタビューの手法を、村上さんは「現象学」としている。元祖のフッサールの現象学とは角度を変えているが、客観性を疑うという意味では通底している。
本書を読み終えたあと、日々のニュースや政治家、官僚の言葉に接すると、その言葉がいかに統計や客観性に支配されているかに気づく。それは、それを伝える「客観報道」という言葉の意味を問うことにもなる。
世の中の風景が違って見えてくるという、読書の力をあらためて感じさせる本である。
■村上靖彦さんプロフィール
むらかみ・やすひこ/1970年、東京都生まれ。基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第七大学)。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授・感染症総合教育研究拠点CiDER兼任教員。専門は現象学的な質的研究。著書に『ケアとは何か』(中公新書)、『子どもたちのつくる町』(世界思想社)、『在宅無限大』(医学書院)、『交わらないリズム』(青土社)などがある。
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