日本語は日本人が使う言語であることは言うまでもないが、その日本語が地球からなくなる可能性について書かれた本『日本語が消滅する』(幻冬舎)が出た。著者は有名な日本語学者である山口仲美さん。
岩波新書の『日本語の歴史』など、日本語に関する著書も数多い山口さんが、日本語の消える危険性を真剣に憂える本を書いたというのだから、穏やかではない。
「日本語が消える」というと、「日本人がいなくなるということか」と考える人も少なくないだろう。本書でも、その可能性について触れている箇所はあって、なんらかの原因で日本人が一気に減った場合(そのケースついては本書で確認されたい)、日本語を話す人間はいなくなり、日本語も消滅に向かうだろうが、そうした極端なケースを想定して書かれた本ではない。
現在、1億2000万人いる日本人は人口の減少が続くとされ、100年後には5000万人になるとも言われている。だが、世界中には話者数が数百万人、数十万人単位の言語は山ほどある。なにしろ世界の言語の数は6000とも7000とも言われているのだ。そう簡単に日本語が消える可能性などないのではないか、と思う。
だが、本書を読んでいくと、日本語と日本語を取り巻く環境、とくに日本語に対する日本人の姿勢と外国人の母語に対する姿勢とを比較したとき、日本語の前途は確かに危ういと感じる。
いくら岸田政権が異次元の少子化対策を取っても、即効性は期待できず、人口減少の流れは当面、避けられない。とすると、日本という国を維持するためには、日本人以外の労働力に頼るしかない。日本政府は認めない移民である。その移民が日本語を話すようになれば、日本語は消えないだろう。
だが、本書では、日本の言語政策の議論では、仮に移民が来ても会話に困らないように、日本人も英語を話そうという議論がまじめに行われてきたという。また、国際人を育てるという名目で、小学校からの英語教育が始まり、中学校に至っては国語の授業時間より英語の方が多いというのが現実だ。
本書には、地球上から消えていった言語の歴史も少なからず詳述されているが、植民地支配などによる同化政策で消えざるをえなかった言語もあれば、民族が自ら便利な言語として世界共通語を選択したケースもある。必ずしも母語話者の数が減らなくても、言語は消えていくのである。
日本でも、明治維新の後や第2次大戦の敗北の後、日本語がなくなる可能性はあった。公用語を英語かフランス語にしようとか、日本語をローマ字表記にしようとか、著名な学者や政治家、文化人がまじめに主張していたのである。そうした痕跡は、現在も漢字の数を制限している「常用漢字」の思想にも残っている。
ただ、「日本語消滅の危機」を強調する議論を始めると、「日本語はすばらしい」=「日本はすばらしい」的なナショナリスティックな主張にすり替えられることも多い。しかし山口さんは、様々な言語の多様性を保つことこそ、文化の多様性を維持することになるとして、むしろ世界で絶滅の危機にある少数言語(アイヌ語もそのひとつ)の保護や「復活」の動きにも目を配る。
国名を聞けば誰でも知っているような外国の小学校の国語の教科書で使われている文字を並べた解説ページでは、母音の表記のない文字、右から左に読んでいく横書き文字が出てくる。他のページにも1行ごとに上下逆さまにして読む文字などが次々に登場し、欧米語と中国語、ハングルくらいしかなじみのない大方の日本人は、世界の言語はこんなにも豊かなのかと驚くだろう。
さらには、山口さんの専門である日本語の特徴が発音、文法、文字などの項目ごとに説明されているだけでなく、他の言語との比較で興味深く理解できる。
本書は専門雑誌「日本語学」(明治書院)の連載をまとめたものであり、学術書的な性格も持っている。しかし、新書という形で出版するための加筆修正がなされたこともあり、専門外の読者でも読みやすい。
言語とは何か、言語が消えていくとはどういうことなのか、自分の日本語生活史を振り返ることもできる1冊である。
■山口仲美さんプロフィール
やまぐち・なかみ/1943年生まれ。お茶の水女子大学卒業。東京大学大学院修士課程修了。文学博士。埼玉大学名誉教授。文化功労者。古典語から現代語までの日本語の歴史を研究。特に『犬は「びよ」と鳴いていた』(光文社)、『ちんちん千鳥のなく声は』(大修館書店)など、擬音語・擬態語の歴史的研究は、高く評価されている。論文「源氏物語の比喩表現と作者(上)(下)」で日本古典文学会賞、『平安文学の文体の研究』(明治書院)で金田一京助博士記念賞、『日本語の歴史』(岩波書店)で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。また、「日本語に関する独創的な研究」が評価され、2022年に日本学賞を受賞。2008年紫綬褒章、2016年瑞宝中綬章を受章。
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