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『オリエント急行』の背景にあった凄惨な事件とは... 解剖病理技師が読むアガサ・クリスティーとその時代

Hariki

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殺人は容易ではない

 『そして誰もいなくなった』『オリエント急行の殺人』などの名作を遺したミステリーの女王、アガサ・クリスティー。その作品の魅力は、トリックやストーリーの面白さはもちろん、科学的な正確さにもある。1920年のデビュー作『スタイルズ荘の怪事件』が刊行された当時、『ファーマシューティカル・ジャーナル』という医薬誌は、こんな書評を掲載した。

「この推理小説は、追跡不能な物質についてのよくある浅はかなプロットではなく、深い知識を生かした毒殺事件になっている。アガサ・クリスティーはこの方面に通じている」

 なぜアガサは、毒殺をはじめとした数々の犯罪をリアルに描けたのだろうか? 作品を分析していくと、当時の科学捜査の進歩との深い関わりがわかってくる。

 さまざまな遺体の検死に携わってきた解剖病理技師のカーラ・ヴァレンタインさんが、著書『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』(化学同人)で、アガサが書いた毒物、凶器、現場の証拠などを科学的に分析し、その魅力を語っている。カーラさんは、8歳の頃からアガサ作品を読み始めて法科学(犯罪捜査や法廷における立証を目的とする応用科学)に興味を持ち、現在の職業に就いたという、生粋のアガサファンだ。

『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』カーラ・ヴァレンタイン 著(化学同人)
『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』カーラ・ヴァレンタイン 著(化学同人)

アガサは「毒に囲まれていた」

 アガサが書いた66作の長編のうち、毒殺がおこなわれるのは実に41作にのぼる。彼女がこんなにも毒物に詳しいのは、第一次大戦中に篤志看護隊(VAD)に参加し、途中から薬剤師になって薬局の助手をしていたからだ。当時の薬局では、薬剤師が手作業で調合した薬を治療に使っていた。アガサは自伝でこうつづっている。

「毒に囲まれていたので、殺害方法として毒殺を選んだのは自然なことだったのかもしれません」

 アガサ作品には、青酸カリ、ヒ素、モルヒネといったよく知られた薬物だけでなく、エゼリン、タキシン、シュウ酸といった、一般的でない薬物も登場する。『スタイルズ荘の怪事件』で使われているのはストリキニーネという化合物だ。非常に毒性が強いが、少量では強壮剤などとして利用されていた。

 毒物は、現代では手に入れるのは困難だが、当時はまだ規制が甘く、現実の殺人犯にとっても手に入れやすかったという。スズメバチ駆除に青酸カリ、ハエトリ紙にヒ素など、たいていの毒物が農薬として使われていた。

 またアガサの篤志看護師としての経験は、死体や血糊などの描写にも役立った。看護師時代には、切断された兵士の足を自らの手で焼却炉に入れるなどの仕事もあったという。ただし、アガサ自身は暴力を嫌っており、描写を必要以上に詳しく残酷にすることはなかった。

ポアロが未来の警察を予言?

 毒物を出発点として、アガサは殺害方法、捜査方法、法律や裁判の手続きに至るまで、さまざまなリサーチを重ねて幅広い作品を生み出していった。こうしたミステリー小説は、かつて警察だけが知っていた犯罪に関する知識を、一般の人々にも広める役割を果たした。

 なかには、現実の一歩先を行っていた例まである。アガサは「科学捜査キット」の必要性を予言していたというのだ。現在の科学捜査には専用のキットが使われるのが普通だが、かつての警官は、なんと遺体の肉片を素手で拾ったり、私物のハンカチで血を拭いたりしていたそうだ。

 イギリスで科学捜査キットの原型となるバッグが導入されるようになったきっかけは、1924年、女性が殺害されてばらばらに切断された「エミリー・ケイ事件」だった。しかし1920年の『スタイルズ荘の怪事件』では、名探偵ポアロがすでに自分専用の科学捜査バッグを持ち、証拠を集めてその中に保存していたのだ。

 他にも、「犯行現場(the scene of the crime)」という言葉もアガサが初めて使ったとされている。「芸術が人生を模倣しているのならば、人生もまた(恐ろしいことに)芸術を模倣することだってありうる」とカーラさん。残念ながら、アガサの作品を模倣したと思われる事件も何度か起きてしまっている。

アガサなりの"正義"の物語

 「エミリー・ケイ事件」は、「カスター事件」と名前を変えて『殺人は容易だ』に登場する。『ABC殺人事件』には、かの有名な「切り裂きジャック」事件が何度も出てくる。このように、アガサは執筆において、新聞に載っている実際の事件をヒントにして発想をふくらませていた。代表作の一つ『オリエント急行の殺人』も、実際の事件から着想を得ている。

 それは1932年の「リンドバーグ愛児誘拐事件」だ。アメリカの飛行士チャールズ・リンドバーグの1歳の息子が何者かに誘拐され、脅迫状で身代金を要求された。要求通りに金を手渡したものの、息子は死亡した状態で見つかり、しかも殺害されたのは誘拐直後だったことがわかった。捜査は難航したが、脅迫状の筆跡や文法、誘拐に使われた梯子、身代金となった紙幣の識別番号から、1935年に犯人が突き止められ、処刑された。

 『オリエント急行の殺人』が出版されたのは逮捕の前年の1934年。この事件をモデルとしたエピソードが、作品の中で大きな鍵となっている。まだ犯人がわからなかったこの事件に対し、アガサは「小説のなかで自分なりの正義を貫く必要性を感じ、このような"正義"の物語を書きあげたのかもしれない」と、カーラさんは推測している。結末を知っている読者にとっては、さらなる奥行きが生まれる背景知識ではないだろうか。

 同時代の法科学の知識を大量に吸収しては、作品に昇華し、一般の読者に広く伝えたアガサ・クリスティー。まさに法科学の進歩と二人三脚の作家人生だったと言えそうだ。本書では「指紋」「微細証拠」「法弾道学(銃器)」「文書と筆跡」「痕跡、凶器、傷」「血痕の分析」「検死」「法医毒物学」の8つのテーマで、アガサの名作長編からマイナーな短編までを徹底分析している。

〈著者プロフィール〉
■著:カーラ・ヴァレンタインさん
8年間さまざまな遺体の検死解剖に携わってきた解剖病理技師。法医人類学と考古学の知識も得て、現在は、ロンドンの聖バーソロミュー病院の博物館で5000を超える解剖学的試料を管理している。著書にPast Mortems: Life and death behind mortuary doorsがある。本書は2作目。

■訳:久保美代子さん
くぼ・みよこ/翻訳家。大阪外国語大学卒業。おもな訳書に『科学捜査ケースファイル』『人体、なんでそうなった?』『アメリカ自然史博物館 恐竜大図鑑』(いずれも化学同人)、『感情をデザインする』(早川書房)、『14歳から考えたいレイシズム』(すばる舎)など多数。


※画像提供:化学同人




 


  • 書名 殺人は容易ではない
  • サブタイトルアガサ・クリスティーの法科学
  • 監修・編集・著者名カーラ・ヴァレンタイン 著、久保 美代子 訳 
  • 出版社名化学同人
  • 出版年月日2023年12月10日
  • 定価3,080円(税込)
  • 判型・ページ数四六判・400ページ
  • ISBN9784759823523

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