「オスマン帝国外伝 愛と欲望のハレム」というトルコのテレビドラマシリーズにはまっている人が多いそうだ。シーズン1(全48話)、シーズン2(全79話)、シーズン3(全92話)、シーズン4(全93話)とつくられ、いつ終わるとも知れない長大なドラマはいくつかのBS、CS、動画配信サービスで今も毎日放送されている。
おもな舞台になっているのが、イスタンブールのトプカプ宮殿だ。オスマン帝国400年の宮城で、南北1.4キロ、東西800メートル、敷地面積約70万平方メートルという広大さ。本書『物語イスタンブールの歴史』(中公新書)をかたわらにドラマを見ると、その面白さがより引き立つだろう。
著者の宮下遼さんは大阪大学言語文化研究科准教授。専門はトルコ文学(史)。著書に『無名亭の夜』(講談社)、『多元性の都市イスタンブール――近世オスマン帝国の都市空間と詩人、庶民、異邦人』(大阪大学出版会)。
イスタンブールの歴史は古く重層的だ。ローマ帝国の混乱を収めたコンスタンティヌス1世が330年に建設した「新ローマ」から、1922年のオスマン帝国滅亡まで1600年あまり、「世界帝都」として繁栄した。本書は、ビザンツとオスマン、二つの帝国支配の舞台になったこの地の案内記である。城壁に囲まれた旧市街から、西欧化の象徴である新市街、東の玄関口アジア岸、そして近代のメガシティへ。複雑多彩な古都を楽しむ時間旅行の趣きがある。
「オスマン帝国外伝」には、ボスポラス海峡に突き出た岬の高台の光景がたびたび登場する。本書の記述もこの高台にあるトプカプ宮殿から始まる。いくつかの庭園があり、城壁と城門で仕切られている。
「歴代の帝王たちは城壁に守られた庭園域のそこかしこに気ままに城館を建て、宴を張り、あるいは政務の疲れを癒した。こうした庭園の只中に佇む別館をトルコ語でキョシュクと呼び、これが現代の駅に佇むキオスクの語源となった。庭園に抱かれ、城壁によって世人の視線を遮りながら段階的に市井と内裏とが隔てられていく秘宮、それがトプカプ宮殿なのである」
ドラマのシーズン1ではスレイマン1世に仕えた大宰相パルガル・イブラヒム・パシャがキーマンとして登場する。ギリシアから徴発されて、側近から大宰相にまで上り詰めた。
宮下さんはオスマン帝国の人材登用制度として有名な「デヴシルメ」について詳しく説明している。征服地のキリスト教徒男子を徴発し、奴隷軍団の兵士に育て上げるシステムだ。
バルカン半島、コーカサス諸地域から徴発され、16世紀には毎年4000人もの子弟が集められたという。少年たちははじめアナトリアの農家に貸し出され、農作業に従事させられる。トルコ語とイスラームについて学び、訓練を受け、軍団に配属される。
その中で才気煥発、眉目秀麗な者は小姓の身分を与えられ、宮殿の内廷にある学校へ送られてくる。「およそ100名の教員、80名の白人宦官の世話係、そして15歳から30歳くらいまでの350から400名におよぶ才子佳人が活動したのだから、大変な賑わいであったはずだ」。
この内廷学校からは60名の大宰相、100名を超える宰相、23人の海軍提督を輩出したというから驚く。奴隷が大宰相になりうる実力主義こそがオスマン帝国の凄さだろう。
女性たちが暮らしたハレムについても詳しい。部屋数は300あまり。帝王の私室や寝室、9つの浴場に厨房、礼拝所が2つ。複雑な構造物の中にセリム2世(在位1566-1574)の時代には女性だけで1200人ほどが暮らしたという。
彼女たちの多くはギリシア系かスラブ系の奴隷で、大半は大部屋暮らし。歌舞音曲や詩歌の技や手芸を仕込まれながら帝王のお呼びを待った。このほかにスルタンの母である母后や姉妹、王子や姫君、友邦や属国の姫たちも暮らしていて、彼女たちは御つきの者と一緒に別に居室を持った。
ドラマではロシア奴隷出身のヒュッレムがその美貌と権謀術数でスレイマン1世を虜にし、后となり権力を握っていく様を描いている。ハレムは日本の大奥を巨大化、立体化したものだが、規模が違う。
旧市街の宮殿からなかなか出ないうちに紙幅が尽きようとしている。本書では旧市街の門前町、新市街の異人街、行楽地だったボスポラス海峡沿岸、アジア側、新都心、2020年の都市圏人口はおよそ1500万人というメガロポリスの姿を歴史的解説とともにビビッドに描いている。
トルコは、アジアとヨーロッパの結節点にある。いわゆる文明の十字路の交点に存在する。現在は小アジアの一国に過ぎないが、17世紀ごろのオスマン帝国の最盛期には広大な世界帝国を作り上げていた。北アフリカからペルシャ湾、バルカン半島までもがトルコだった。現在のモロッコ、エジプト、ギリシア、シリア、イラク、イスラエル、イエメン、ハンガリー、ウクライナ、アゼルバイジャンなどの一部もしくは全部がトルコだった。
つまりトルコは一時期、メソポタミア、エジプト、ギリシアなどの古代文明が栄えた地域をも支配していた。
世界で8億人が視聴したといわれる「オスマン帝国外伝」の人気の源泉は、そうした世界帝国の権力の実像を内側から描いたことにあるだろう。アジアの小国の宮廷史とは比べようがないスケールなのである。本書が描くイスタンブールの重層性は、今日ますます輝きを増している。
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