新型コロナウイルスに関連して、世界で最も有名になった女性は、ドイツビオンテック社の上級副社長カタリン・カリコ博士だろう。本書『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』(ポプラ社)は、そのカリコ博士の苦難の人生を紹介したものだ。「世紀の発見は逆境から生まれた」という副題がついている。
著者の増田ユリヤさんはジャーナリスト。テレビのコメンテーターとしても活躍している。
日本ではカリコ博士の名前を聞いても、ピンとこない人が多いかもしれない。わかりやすくいうと、多くの日本人が接種したファイザー社やモデルナ社のワクチンの原理を見つけた人だ。両社のワクチンは、ともに「m(メッセンジャー)RNA」という遺伝物質を利用している。カリコ博士は早くからこのmRNAに注目、研究を重ねてきた。つまり日本人の大半が、博士の恩恵にあずかっている。
ファイザー社のワクチンは、ドイツのビオンテック社との共同開発だが、実際にはビオンテックが主導したといわれている。カリコ博士の関与が大きい。 2021年のノーベル医学賞は、カリコ博士が受賞するだろうと多くの医学関係者は予想していた。というのは博士が、ノーベル賞の前哨戦と言われてる米国の医学賞「ローゼンスティール賞」など3つの賞を、20年から21年にかけて立て続けに受賞していたからだ。
10月発売の本書も、博士のノーベル賞受賞を想定していたに違いない。残念ながら、大方の推測では、まだコロナ禍が収まっていないことから21年の受賞は見送られたが、近い将来の受賞が確実視されている。
今や「世界の恩人」とでも呼ぶべきカリコ博士だが、40年にわたる研究人生は苦難の連続だった。
博士は1955年、ハンガリーで生まれた。首都ブダペストから東におよそ150キロ離れた地方都市で育った。親は精肉店を営んでいた。
大学で生化学の博士号を取得したあと、地元の研究機関で研究員として働く。しかし、研究資金が打ち切られたことから1985年、夫と娘の3人で米国に渡ることに。研究論文に関心を持った米国の大学から招へいされたのだ。
当時のハンガリーは社会主義体制。外国の通貨を自由に持ち出すことができなかった。本書によると、米ドルは、わずか100ドルまで。いくら何でも少なすぎる。闇で車を売ったりして1000ドルを作った。それをビニール袋に入れ、2歳の娘が持っていたクマのぬいぐるみ(テディイベア)の背中を切って忍ばせ出国した。見つかったら一巻の終わり。アメリカに到着するまで娘とテディベアから目を離せなかったという。そのテディベアの写真も本書には掲載されている。
米国では、ペンシルベニア州のテンプル大学やペンシルベニア大学で研究員や助教として働き、「mRNA」などの研究に没頭した。
しかし、研究成果はなかなか評価されなかった。助成金の申請を企業から断られたり、所属していた大学の役職が降格になったりもした。
そうした中、ペンシルベニア大学で、コピー機を使う際に言葉を交わしたことがきっかけでHIVのワクチン開発の研究をしていたドリュー・ワイスマン教授と知り合い、2005年、今回のワクチン開発に道をひらく研究成果を共同で発表することになる。
しかしこの論文は、当時は注目されず、関連する特許を大学が企業に売却してしまう。
多くの研究者がその可能性に気付かない中で、独の新興企業ビオンテック社がこの研究成果に注目。同社に招かれたカリコ博士は2013年に副社長、19年からは上級副社長になる。新型コロナ発生後、同社はいち早く「mRNA」ワクチンを開発、ファイザー社と組み、大量製造が可能になった。モデルナワクチンも同じく「mRNA」を用いたものだ。
以上がカリコ博士の人生の大筋だが、本書で感心したのは、2つある。
一つは、著者の増田さんが早々と21年3月にはカリコ博士とズームインタビューをしていること。NHKも単独インタビューしているが、5月だから、増田さんはかなり早い。本書に収められているテディベアなどの貴重な写真も、博士自身の提供によるものだ。
もう一つは、博士のハンガリー時代の恩師ともズームインタビューしていること。家が近所だったことから少女時代のカリコ博士についても詳しい。実家が精肉店だったので、豚の解体などを間近で見る機会があったが、じっと観察しているような子どもだったという。小学校の5~6年生のころには、全国的な生物学のコンテストに参加して優勝していたという。
著者の増田さんは長年、高校の教員をしていた。そのため、恩師へのインタビューでは教師と生徒、才能のある子どもをいかにして伸ばすか、という視点からの質問が多い。日本の教育関係者にとっても大いに参考になる。
巻末には、カリコ博士とつながりの深い山中伸弥さんへのロングインタビューも掲載されている。一般読者はもちろん、将来ノーベル賞を目指したいと思っているような中高生などにとっては、とくに刺激になる一冊だ。
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