新型コロナウイルスで来年の大学受験はどうなるのか。今から心配な受験生が多いのではないか。とりわけ医学部志願者は増えるのか、減るのか。本書『医学部』(文春新書)は大学受験で最大の難関といわれる医学部と医者業界についてまとめたものだ。2年前の刊行なので、コロナについては書かれていないが、様変わりしつつある近年の状況がよくわかる。医学部を目指す受験生には大いに参考になりそうだ。著者の鳥集徹さんは1966年生まれのジャーナリスト。同志社大学大学院修士課程修了(新聞学)。医療取材歴20年という。
本書を読んで痛感したのは「東大医学部の低迷」だ。かつては全国の大学医学部の頂点に君臨していたが、今は相当パワーダウンしているという。たしかに日本人のノーベル生理学医学賞でも、山中伸弥さんは神戸大医学部出身で京都大教授、本庶佑さんも京都大の医学部出身だ。残念ながら東大医学部出身者の名前がない。
本書は、第一章を「東京大学医学部の凋落」から書き始めている。東大医学部は日本最初の医学校であり、卒業生は東大のみならず、全国多数の大学の医学部で教授になり、日本の医学界を支えてきた。ところが、異変が起きているというのだ。
鳥集さんは1980年と2017年のデータを比較する。保阪正康氏の著書『大学医学部』(現代評論社)によると、1980年の段階では、東大出身の教授は東大で49人中47人を占めたのは当然として、帝京大学で43人中38人、順天堂大学では45人中36人、自治医科大学では35人中27人、群馬大学は31人中19人、東京医科歯科大学は35人中21人など、教授陣の半数以上を占める大学が全国で7校もあった。まるでかつての大英帝国のように多数の「植民地大学」を抱えていた。
では2017年はどうなっているか。鳥集さんは80年当時に東大出身者が10人以上いた19大学に絞って再調査してみた。順天堂大学では54人中11人、自治医科大学では47人中15人、群馬大学では42人中6人、東京医科歯科大学では55人中6人に激減している。まだ多い帝京大学でもその数は54人中32人、東京大学本体でも53人中42人に減っている(一部に不明分がある。以下同)。
調査対象の19大学全体では、実数で東大出身者が383人から183人に半減。教授定員が増えていることもあり、比率では51%から19%にまで落ち込んだ。つまり各大学への「支配力」が大幅に低下していることが分かった。東大医学部に入り、東大の教授になれなくても、どこか有名大学の教授になれるという時代は過去のものとなっている。
他大学の医学部で、東大出身教授が減っていることの大きな理由は、それぞれの大学が自校出身者から教授を出せるだけの実力をつけたことによる。本書には17年の「自校割合」の一覧も掲載されている。それによると、全体で33%。中でも日本大学58%、東京医科歯科大学53%、筑波大学51%、群馬大学50%、昭和大学49%などが目立つ。
鳥集さんは「もし医師人生の一つの到達点として『医学部教授』を目指すなら、東大医学部卒業である必要性はなくなりつつある」と結論づける。医学部教授の中で東大卒は「大勢の中の一人」になっており、「このことは他大学の医学部が東大による植民地支配から抜け出しつつあることも示している」。それは他大学に多くの教授を送り込むことで支配体制を維持してきた東大医学部の権力構造が崩れ始めていることでもある、と指摘する。
医学の世界では何かと「エビデンス」が問われるようになっているが、本書のデータが示すエビデンスはかなり強烈なものがある。
大学受験の世界では近年、医学部人気が高まり、本書によれば旧帝大系はもちろん、地方の国公立大学医学部の偏差値アップが著しい。多くが、東大と比べても、理科Ⅲ類(医学部医学科に進学するコース)以外の学部と同等かそれ以上の難関になっているという。すなわち東大の工学部並み、あるいはそれ以上の偏差値を持った学生が集まるようになっているわけだ。しかも、ノーベル賞を見ても分かるように、京大が元気だ。その意味でも東大医学部の優越性は近年急速に薄れているということだろう。
毎春、全国の高校の東大合格者ランキングを発表する週刊誌も、かなり前から「医学部合格者数」や「東大+医学部合格者数」をも掲載するようになっている。『大学はもう死んでいる? トップユニバーシティーからの問題提起』(集英社新書)によれば、もはや日本の大学に見切りをつけ、直接海外の難関大学に向かうスーパー高校生も増えている。
そういえば、もう一つ興味深い「エビデンス」が掲載されていた。鳥集さんが17年8月に二週にわたって「週刊文春」で担当した「ライバルが認める『がん手術の達人』」という記事だ。多くの外科医にアンケート、腕も人間性も信頼できる外科医の名前を挙げてもらった。複数から推薦があった外科医は合計で126人。そのリストに名前が掲載された東大病院の医師は、肝胆膵外科に所属する准教授1人だけだったという。京大病院4人、名大病院3人、順天堂大(本院の順天堂医院)3人などに比べると、見劣りがした。
リストアップされた医師の出身大学では、東大OBが少なくとも12人いたが、うち7人は肝胆膵外科出身であり、偏っていた。
象徴的な出来事として、2012年2月に、順天堂大学心臓血管外科の天野篤教授が東大病院に招かれ、天皇陛下の心臓手術を執刀したことを挙げている。この手術が、東大病院の心臓外科の教授の専門分野ではなかったことも影響していたようだが、かつてなら「東大の威信にかけて自分たちで事を済ませようとしただろう」と鳥集さんは驚いている。ちなみに天野教授は「三浪してやっと日本大学に合格できたという経歴の持ち主」だという。
振り返れば世界的研究で有名なペスト菌の北里柴三郎や、赤痢菌の志賀潔は東大医学部の出身。感染症の新型ウイルスが猛威を振るっている時でもあり、東大医学部出身者には画期的な研究を期待したいところだ。
本書は第二章以下で、「『医局』」の弱体化」、「医学部ヒエラルキーの崩壊」、「医学部とはどんなところか?」、「ゆがんだ医学部受験ブーム」、「医者に向く人、向かない人」、「それでも医学部をめざす人たちへ」と、東大以外にも目配りしながら「医学部」が抱える問題点を列挙する。多数の医療関係者への取材に基づいているが、残念ながら東大の医学部長が取材に応じていない。
本書を読みながらいくつかのことが思い浮かんだ。1980年段階の東大医学部でも、圧倒的な支配力を保持していたわけだから、その10年余り前の、東大闘争の発火点になったころの東大医学部とは、いったいどれぐらいの権力を持つ超エリート集団だったのか。その医学部の学生が大学当局に反抗し、ストに突入したことの衝撃を改めて知らされる。また、受験の世界で近年、医学部偏重が進む中で、当然ながら工学系などでは相対的なレベルダウンが起きているのではないかということも気になった。日本全体の国力、科学技術力維持ということでは見逃せない部分ではないだろうか。1970年代ぐらいまでは、理系の成績優秀者の多くは医学部ではなく、東大の理Ⅰや京大をはじめとする旧帝大の工学部系を目指し、メーカーに就職するなどして戦後日本の発展に貢献してきたのではなかったか。その一人が、19年にノーベル賞を受賞した京大工学部出身、旭化成の吉野彰氏ではないかと思う。
さらにもう一つ加えるとするなら、今回の新型コロナウイルス。医学部人気の一因は「高給」にあるわけだが、新型コロナでは各国で命を落とす医療関係者が少なくない。そのあたりが来春の志願者動向にどう影響するだろうか。医学部志願者は理系では最高レベルの集団だから、その他の受験生にも関係する話だ。
なお、医学系の研究は、意外にも医学部出身者以外によるものも少なくない。BOOKウォッチでは関連して、北大獣医学部出身者による『猛威をふるう「ウイルス・感染症」にどう立ち向かうのか』(ミネルヴァ書房)や『ウイルスは悪者か』(亜紀書房)、また、別の大学の薬学出身者による『知っておきたい感染症―― 21世紀型パンデミックに備える』 (ちくま新書)、農学部出身者による『DNA鑑定――犯罪捜査から新種発見、日本人の起源まで』(講談社ブルーバックス)なども紹介している。
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