「身に覚えのある感情が、きっとここにある。」
川上佐都さんは『街に躍ねる』で第11回ポプラ社小説新人賞特別賞を受賞し、今年デビューした。第2作となる『今日のかたすみ』(ポプラ社)は、さまざまな同居と人間関係、そこから生まれる悲喜こもごもを描いた5編からなる連作短編集。
付き合って半年で同棲を始めたカップル。何年も離れて暮らしていた父親の家に転がり込んだ女子中学生。友人と職場の後輩の3人でルームシェアをする青年。アパートの隣人を一晩泊めることになった女子大生。引っ越し先で荷ほどきを終えた青年。
ドアの向こうでは、誰もがなにかに悩み、喜び、暮らしていた。
遙(はるか)が住んでいる築32年のアパートに、百(もも)が越してくることになった。同棲は、百からの提案だった。百は社会人1年目。付き合って半年。まだ早いと思ったが、遙は嬉しさのあまり提案を受け入れた。
同棲を始めて1ヵ月。遙がコンビニで夕飯を買って帰宅すると、百が泣いていた。手料理も掃除も完璧にこなしてきて疲れたのではないかと思ったら、涙の原因は別にあった。百の中に「惣菜」の選択肢はなく、どんなに面倒でも自炊をする。面倒だから惣菜にしよう、という遙の思考が嫌なのだという。
遙は生活文化の違いを痛感する。制限はあっても幸せだった。しかし、自分の家なのに居心地が悪く、窮屈になってきた。自分が落ち着ける物に囲まれて、映画を観たり漫画を読んだりしたい。百と一緒にいるときは我慢しているのだ。一人の時間がほしいと、切に望んだ。
互いに違和感を抱く遙と百。いわゆる価値観の違いなのだが、百は一歩踏み込んで、こう考えた。自分は「何をするか」より「誰と過ごすか」が大事で、遙はその逆なのだと。
「私と遙くんって、幸せの順番が違うんだなって思ったの」(中略)僕の脳の一部――百ちゃんを悲しませないため、本心ではない言葉を紡いでいた部分――が停止した。
(「愛が一位」より)
自分にとっての幸せの一位はなにか。これは一人でいるときには考えないだろう。人と一緒に暮らして初めて、自分のことも、相手のことも、よく見えてくるのかもしれない。
ある晩、アパートの隣室に住む中原さんが、朱夏(しゅか)の部屋のインターフォンを鳴らした。鍵が壊れたので一晩泊まらせてほしいという。「えっ」と思ったが、朱夏は受け入れることにした。
中原さんとは挨拶を交わしたりお菓子をもらったりするくらいで、そこまで話したことはなかった。距離感が近く、陽気で、よくしゃべる人であることを、このとき初めて知った。
翌日、朱夏の部屋に大家さんがやってきて、「大丈夫でした?」と聞いた。中原さんを要注意人物と見なし、朱夏も迷惑がっていると思い込んでいるようだった。「ほらあの人、お孫さん亡くしてるでしょう。きっとその後からなのよね。ちょっと変になっちゃっているんだと思います。」と、中原さんが朱夏にしなかった話をした。
朱夏にとって中原さんは迷惑どころか、感情を見せられて、一緒にいて楽しいと思える、数少ない人だった。自分からは聞かないようにしていたが、あるとき、中原さんの孫の話になった。生きていたら、朱夏と同い年くらいだったという。
もういない大切な人と、いま隣にいる人が重なり、記憶が蘇ってくることがある。朱夏は、中原さんくらいの祖母がいたことを話した。そこで、祖母に背中を掻いてもらいながら寝るのを楽しみにしていたことを思い出す。
それほどのことを、どうしてか私は忘れてしまっていた。(中略)思い出すきっかけになる物もない。同じように忘れてしまった思い出が他にもあると思うと悲しいけれど、どうしようもなかった。
(「ピンクちゃん」より)
この交流がずっと続いたらいいが、どんな状況も、気持ちも、一か所に留めておけるものではない。ただ、そのときの記憶だけはかたちを変えることなく、なにかの拍子にまた思い出せたらいいと思う。
「きっと思い出さないままでも、暮らしに支障はないけれど、たしかに存在した喜怒哀楽を少しでも残しておきたい、そんな思いから書き始めました。(中略)多くの情報であふれる暮らしの中で薄れていた過去の感情を、この物語のなにかで想起させられたら幸せです。」
(川上佐都さん)
今回、川上さんの作品を初めて読んだ。みずみずしく、あたたかく、心に陽が射し込むような読後感だった。
■川上佐都さんプロフィール
かわかみ・さと/1993年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。『街に躍ねる』で第11回ポプラ社小説新人賞特別賞を受賞しデビュー。
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