東大名誉教授で解剖学者の養老孟司さんは、累計660万部の大ベストセラーとなった『バカの壁』シリーズの著者として知られるが、最近は愛猫まるとともにNHKの番組に登場していたことから、その飼い主としても有名だった。シリーズ最新刊の『ヒトの壁』(新潮新書)では、コロナ禍の日常、死の淵をのぞいた自らの心筋梗塞、まるの死という、この2年間の体験から、ヒトという生物について思索した内容になっている。
養老さんは昨年(2020年)6月末に体調が悪く、東大病院に検査に出掛けた。心筋梗塞の診断で即入院となった。数日遅れていたら、冠動脈の主要部分が詰まっていた可能性もあり、命拾いした、と書いている。
退院後はステイホームに徹した。コロナ禍の不要不急人生ここにあり、と開き直り気味で書いた文章だが、自らの人生やさまざまな本にも触れ、薄い本の割には密度が濃い。
人生を回顧した章で、「戦後を拒否してきた」と書いているのに驚いた。子ども時代に限らず8月がイヤな月だったとも。敗戦から思い出されることを心理的に抑圧してきたことに、80歳を超えて気がついたという。
戦前がウソなら戦後日本もウソの塊で、「一億玉砕」「本土決戦」と、「平和」「民主主義」も同じようなものだと見れば済んだという。生きにくいと思ったのは、養老さんが社会を拒否してきたからで、母親の影響を挙げている。
養老さんの母は開業医で、生涯それだけを続けた。一切の公職につこうとせず、医師会の役員ですら拒み続けた。戦中に朝鮮人を差別なく親切に治療したことを後で知ったという。
心理的な抑圧が解除されたのは『敗戦後論』(ちくま学芸文庫)を書いた評論家・加藤典洋さんの死(2019年)が原因だった。加藤さんとは古い付き合いだったが、『敗戦後論』は読みかけては中断を繰り返していた。加藤さんが亡くなり、読み返してみると、素直に読むことができた。
「人生は不要不急か」「新しい宗教が生まれる」「ヒトはAIに似てきている」「人生とはそんなもの」「自殺する人とどう接するか」「なせばなる日本」などの章からなる。敗戦についての記述は、「なせばなる日本」にも出てくる。
ある文学賞の会議で、米国(または中国)の対日政策に関して、「変だ、不条理だ」という意見を述べた人がいた。そこで議長役の山崎正和氏が「戦争に負けたということはそういうことだよ」と一言延べ、議論は終わった。「殺し文句」とはこういうことか、と思ったそうだ。そして、自分自身が「敗戦」という「事実」を甘く考えていたことに気がついた。そして、こう書いている。
「『仕方がない』はきわめて無力に思われるかもしれないが、事実認識としては十分強力になりうる」
こうしたあきらめにも似た諦観が、底に流れているような気がする。戦後社会を拒否して生きてきたのだから当然かもしれない。コロナ以降に養老さんが始めたのは、花や植物の名前を覚えることだった。虫捕りをするが、植物の名前を覚えることはしなかった。
友人と散歩すると、スマホで使えるアプリを教えてくれた。野草の花を撮影すると、草の名前がわかる。庭の植物を見るのがホームステイの日課になった。
最終章は「ヒト、猫を飼う」である。昨年12月に亡くなったマルのことを書いている。NHKが番組にしていたが、養老さんはずっと寡黙だった。本書で心のうちがわかった。
「編集者やお客さんが来ると、挨拶は無視して反応しないくせに、後で必ず話している場に確認に来た。見ないふりしてそばに来る」
「二階のベランダから屋根に出すと、いちばん高いところに上がって、横になっている。そこにカラスがやって来て、まるの背中をチョンとつついた。まるは一切抵抗せず、カラスはそのまま去った。これは心理的にショックだった。動物が外敵に抵抗しないということは、もはや人生を諦めたということなのか。見ているほうが辛い」
まるがいなくなっても、距離感や関係性は変わらないという。今もいつもの縁側の窓辺でまるがいるような気がして、見てしまう。
軽いエッセイかと思ったら、そうではない。『心はすべて数学である』(津田一郎著、文藝春秋)、『天然知能』(郡司ペギオ幸夫著、講談社選書メチエ)、『流れといのち』(エイドリアン・ベジャン著、紀伊國屋書店)、『寡黙なる巨人』(多田富雄著、集英社文庫)、『死を求める人びと』(ベルト・カイゼル著、角川春樹事務所)、『苦しい時は電話して』(坂口恭平著、講談社現代新書)など多くの本への言及があり、みずみずしい思考の軌跡が浮かび上がる。
「いくら本を書いても、次から次へと考えるべき問題が生じてくる。このストレスは死ぬまで止まらないなと感じている」と結んでいる。シリーズはまだまだ続きそうだ。
BOOKウォッチでは、養老さんの共著、『心をたもつヒント――76人が語る「コロナ」』(共同通信社)、『コロナ後の世界を語る――現代の知性たちの視線』 (朝日新書)のほか、 『今日も猫だまり』(KADOKAWA)、『日本の島のごきげんな猫』(エムディエヌコーポレーション)などを紹介済みだ。
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