2019年に亡くなった国民的作家・田辺聖子さんの青春期の日記が、今年(2021年)発見された。本書『田辺聖子 十八歳の日の記録』(文藝春秋)には、日記のほか、中短編4作が収録されている。空襲で家を失い、終戦後のままならない日々を、作家志望の18歳はいかに過ごしたのか。田辺文学の原点とも言える資料だ。
日記は兵庫県伊丹市にある田辺さんの自宅から見つかった。資料整理にあたっていた姪の田辺美奈さんらが発見した。当時、樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)の国文科に在籍していた田辺さんの昭和20年4月から22年3月までの日記である。
学徒動員で、兵庫県尼崎市の飛行機部品工場で働く日々から始まる。女子寮での共同生活。日記を盗み見られたと怒り、「是非ここを読みたまえ」と級友を非難するくだりがある。自分が書いた短編への言及や好きな詩を引用するなど、文学少女らしい記述も見られるが、6月1日の第二次大阪大空襲を境に生活は一変する。
翌2日の日記には、こう書かれている。
「母とのいさかいや、死体の発掘などの平和的な事件の次に、こんなにも恐ろしい、終生忘れ得ない様な、傷手を与えられた事柄が起ころうとは、誰が一体予知し得たであろうか?」
たまたま学校へ行き授業を受けていると空襲警報が鳴った。大阪がやられたという情報で家に向かったが、途中の鶴橋から電車は不通になり、歩いて福島区の家へ。「えらいことでしたな、お宅、焼けましたなあ」と近所の人に声をかけられた。家族とのやりとりが小説のようにあれこれ書かれている。空襲の直後にこれだけの文章を書くことが出来ることに驚かされる。
終戦を知った8月15日には、こう書いている。
「何事ぞ! 悲憤慷慨その極みを知らず、痛恨の涙、滂沱として流れ、肺腑は抉られるばかりである」
しかし、翌日には新聞で天皇陛下の大詔を読み、その真意を知り、また涙を流している。
父が体調を崩し、ままならない日々にあっても文学のことは忘れない。
「小説の方はすこしも進まず、私の筆は膠着して更級日記小説化はもはや断念せねばならない。作中の人物の性格描写は拙劣で、叙述は平板である」
12月23日、衰弱していた父が亡くなる。1年後、昭和21年の大みそかの日記には、こう書いている。
「来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない」
年譜によると、田辺さんは昭和22年3月に卒業、この日記も終わる。大阪の金物問屋に入社、事務員として働く。24年頃から、懸賞小説に応募し始める。30年から大阪文学学校へ通い、32年に「虹」で大阪市民文学賞を受賞。39年に「感傷旅行」で第50回芥川賞を受賞。36歳だった。以後多くの作品を書き続ける。60年に発表した『ジョゼと虎と魚たち』は、平成15年に映画化され、妻夫木聡、池脇千鶴の主演で大きな話題を呼んだ。令和2年にはタムラコータロー監督によりアニメ映画化されるなど、今なお多くのファンに愛されている。
ノンフィクション作家・梯久美子さんの解説「十八歳にして田辺聖子はすでに田辺聖子だった」が巻末に収められ、理解を深めてくれる。
田辺さんは自伝的小説やエッセイで何度か大阪空襲のことを書いているが、今回、日記とほぼ同じ表現が出てくることに気が付いたという。
「第百生命は全滅だ。きれいに中が抜けている。閉じたガラス窓からブゥーと黒煙がふき出している」
「熱気のため、かげろうのようなものがゆらゆらと焼けあとにこめている中を、人間の頭なより大きな火花が、ゆらりゆらりと人魂の如く飛んでゆく恐ろしい光景は、一生忘れられないものだと思った」
後年になっても、作家の目で事実を加工することを行っていないのは、「同じ時代を生きた少年少女のためでもあったのではないかと思う」と指摘している。
写真館を営む父はクラシック音楽を好み、水彩画を描く芸術家肌の人だったそうだ。宝塚歌劇に通い、田辺さんをよく映画館に連れていった。
田辺さんと言えば、「週刊文春」で「女の長風呂」のタイトルで16年続いた連載エッセイがあり、その印象が強い。夫の医師・川野純夫さんが登場し、「カモカのおっちゃん」と親しまれた。漫才風の芸風だったが、少女時代にこうした過酷な日々があったとは想像も出来なかった。
タイトルに「日記」とあるが、いわゆる日記の域を超えている。身辺雑記もあるが、創作帳であり、作品そのものでもある。
「もうこの日記も、いつわりや飾りは書かぬ。ありのままの記録だ。血の滲む、魂の記録だ」(21年2月14日)
やさしい面影の一方、少女時代からこうした覚悟をもった人であったことを知った。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?