裁判官は何となくいかめしい。中でも最高裁の判事は特に近づきがたい。国民審査でスポットが当たっているが、いったいどんな人たちなのか。
本書『お気の毒な弁護士』(弘文堂)はその素顔の一端をわかりやすく伝える。著者の山浦善樹さんは弁護士。2012年から16年まで最高裁判事も務めた人だ。
副題に「マチ弁から最高裁判事、そして再びマチ弁へ――」とある。マチ弁とは、町(街)の弁護士。巨大企業の顧問弁護士や、大手法律事務所に所属する弁護士ではない。主として庶民が巻き込まれたトラブルを担当する弁護士のことだ。
実際、山浦さんは「弁護士1人、事務員1人」という小さな事務所を長年切り盛りしていた。それがある日、突然、最高裁の裁判官に任命され、4年にわたって「憲法の番人」とも呼ばれる重責をこなすことになる。
1946年生まれの山浦さんは、いわゆる正統派のエリートではない。長野県丸子町(現上田市)の小中学校を卒業、上田高校を経て一橋大学法学部へ。
こう書くと、地方の秀才という感じだが、ちょっと違う。一家は極度の貧乏。父は工場の仕事で指を切断、出稼ぎと失対事業でわずかな稼ぎ。母も働きに出ていた。祖母も内職。教科書も買えないような生活が続き、中学を出たら地元の信用金庫に勤めるつもりだった。
中3の時、担任の先生が、高校受験の模擬試験に山浦さんが申し込んでいないことに気づく。「高校には行かない。母と話し合って決めた」と言うと、「高校に行くと奨学金がある。お金がないという理由で就職しちゃダメだよ」と説得された。
何とか、高校には入ったが、大学に進む気はなかった。家庭の事情もあり、勉強は高校までと決めていた。ところが2年生の時、父母面談があった。「山浦君は、とても良い成績です。今のままで行けば一流大学への進学が可能です」と言われ、母はびっくりした。
「善樹、どうする」
「高校で十分、大学進学は考えていない」
ところが今度は高校の担任教師が、「今の成績だと日本育英会の特別奨学金が受けられる」と教えてくれた。月8000円だという。父親の稼ぎの2倍の額だった。「そんなに貰えるなら大学に行こう」ということになり、受験モードに入った。家から20分ほどの禅寺「全芳院」で部屋を貸してもらい、そこを自分の勉強部屋にした。
こうして山浦さんの個人史をたどると、日本が高度成長に入っていた1960年代に、繁栄から取り残されていた一家の姿が浮かび上がる。
大学時代は、ちょうどベトナム戦争が激化していた。山浦さんは積極的にベトナム戦争反対の運動にもかかわった、と記している。
1969年、大学を卒業し、三菱銀行に就職、結婚。しかし、銀行員の仕事は肌に合わなかったようだ。わずか1年でやめることになる。そこから背水の陣で司法試験に挑み、1年で合格、法曹としての一歩を踏み出す。当時の司法試験は、今とは比べ物にならないくらいの難関だった。合格率は3%ぐらいだったという。
合格して、お世話になった地元の禅寺に「受かりました」と報告に行った。喜んでもらえると思ったら、和尚は黙ったまま、お茶をいれている。そして、ひとこと「お気の毒に・・・」とつぶやいた。説明はしなかった。自分で考えろ、ということなのだろう。山浦さんは訳が分からず、質問もできなかった。
本書はその和尚のひとことをタイトルにしている。意味が分かったのは弁護士になってから。それも「ずーっと後になってから」だという。
本書は以下の構成。
第1章 「マチ弁」の熱き思い
第2章 生い立ち
第3章 大学生活、そして就職
第4章 法曹の道へ 「お気の毒に」と言われて
第5章 マチ弁が民事訴訟法の専門家になる
第6章 最高裁判所裁判官
第7章 お気の毒な弁護士を再び目指す
創価大学教授の山田隆司さんと、弁護士で創価大学法科大学院教授の嘉多山宗さんが聞き手になり、山浦さんにインタビューした記録をまとめている。いわゆるオーラルヒストリーとなっている。かなり踏み込んだ話もしているが、内容については、法務当局のチェックを受けているとのこと。会話のやり取りをそのまま書き起こした「ですます体」でもあり、エピソードも豊富なので極めて読みやすい。司法試験を志す人、最高裁判事の内情を知りたい人には大いに参考になる。日本がまだ戦争の影を背負っていた1960年代を誠実に生きた庶民史、青春物語としても貴重だ。
BOOKウォッチでは関連で『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)、『裁判官も人である』(講談社)、『「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方』(岩波現代文庫)、『原発に挑んだ裁判官』(朝日新聞出版)なども紹介済みだ。
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