NHKの2020年大河ドラマ「麒麟がくる」は、大河ドラマとして初めて、明智光秀を主人公に据えた。主君織田信長を裏切った謀反人というイメージの強い明智光秀。昨年(2019年)来、光秀にかんする本の出版が相次いだ。歴史家、作家がそれぞれ新しい史料をもとに、光秀の前半生と「本能寺の変」について独自の解釈を展開した。
NHKは、「謎めいた前半生に光を当てる」と意気込んでいた。最新の歴史研究の成果で、どうやら医者だったらしいことが分かってきた。昨年末に出た『明智光秀』(NHK出版新書)は、英雄史観・陰謀論を排し、とことん実証的にその生涯に迫った本だ。
著者の早島大祐氏は、関西学院大学教授の中世史家。早島氏は、まえがきで「明智光秀の研究は開かれている」と書き出している。各種の史料データベースにインターネットで接続できるようになった上、明智光秀研究では、『新修亀岡市史資料編第二巻』(亀岡市史編纂委員会)、福島克彦氏らによる「明智光秀文書集成」(藤田達生・福島克彦編『明智光秀』八木書店)、そして早島氏が作成した「明智光秀の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版)などによって、光秀の足跡はだいたい追跡することが可能になった。そして、光秀は京都代官期に施薬院(やくいん)全宗という医者の家で執務をしていたことが分かった。
さらに村井祐樹氏の論文「幻の信長上洛作戦」で紹介された『針薬方』という史料に、光秀から足利義昭の側近が『針薬方』の口伝をうけたと書かれていた。ある程度の医学知識があったことが伺われる。これらのことから早島氏は、光秀が当時の医者のネットワークに組み込まれていたと推測する。また、この口伝の時期と場所もある程度絞り込んだ。
結論として、「越前の長崎称念寺(福井県丸岡町)、今の蘆原温泉のあたりにある時宗寺院の門前で、10年ものあいだ、牢人として暮らしていた」と書いている。そのことは「遊行三十一祖京畿御修行記」という史料に載っているという。
どうやって生計を立てていたのか? 横田冬彦氏の研究「医学的な知をめぐって」を援用し、医者=牢人だった当時の状況から、歴史の表舞台に登場する以前の光秀は牢人医師だったと見ている。のちに光秀が部下に送った手紙では、戦闘でケガをした部下を気遣い、ちゃんとした医者に診てもらえ、とアドバイスしていることから、それほど力量はなかったものの医学の心得があったことは間違いない、としている。
信長に取り立てられて出世するが、後年信長から「パワハラ」とも思えるハードワークを要求された。特に天正9年(1581)から10年にかけて、「実にバランスの悪い仕事の振り当てられ方である」と指摘している。丹波・山城・大和の経営に軍事、さらに書状の伝達役や家康の接待などの細々とした"庶務"まで信長から言いつけられている。そのストレスが謀反の引き金になったと見ている。
ドラマでは光秀は医者だったとは描かれなかった。あまりに地味なストーリーになるため、戦国ドラマにはふさわしくなかったからだろう。
『信長の革命と光秀の正義』(幻冬舎新書)は、歴史小説家の安部龍太郎さんが光秀を突き動かした大義と使命について論じた本である。安部さんは、『信長燃ゆ』、『信長はなぜ葬られたのか』など、信長関連の著書も多い。本書は新史料をもとに書き下ろした「本能寺の変」の最先端の解釈であると自負している。
光秀にも一章割いているが、多くが信長と彼が生きた戦国時代について書かれている。五摂家筆頭である近衛家の長男に生まれた近衛前久という人物に光を当てているのが特徴だ。織田信長と近衛前久。二人は互いの才を認め合い、時に戦い、時に「蜜月」を送ったという。
朝廷の最高実力者だった前久と信長が食い違ったのは、安土城を「御所」にしようとした信長の意図が明らかになったからだ。1999年の安土城発掘調査で、本丸跡の礎石位置が内裏の清涼殿に酷似していることが明らかになった。安部さんは信長が「遷都」を考えていたと推測する。天主から見下ろす位置にあり、朝廷を支配下におこうという野心があったと見ている。
「あろうことか、天皇の上に立とうとするなど、到底許されることではありませんでした。前久は、信長と袂を分かつ決意を固めます」
そして、前久が練った信長謀殺計画に光秀も組み込まれた、と書いている。この計画には将軍足利義昭も関わっていた証拠があるという。三重大学の藤田達生教授が発見した光秀の書状を紹介している。光秀は将軍の指示で動いていたというのだ。
さらに、本能寺の変の後、秀吉だけが備中高松から戻り、光秀を討てたのは、事前に周到な準備があったからだ、と指摘する。安部さんは秀吉にも密使を送り、仲間に引き入れようとしたと考えている。
「秀吉は一旦これに応じた。あるいは応じるふりをして、『光秀軍を討てば天下が転がり込んでくる』と算盤をはじき、『中国大返し』を実現する準備をしていたと思われます」 「前久は娘の前子(さきこ)を関白秀吉の養女とし、後陽成天皇の女御として入内させています」 「『本能寺の変』で手を汚した二人が、互いの利益のために手を結び、変の真相を徹底して闇に葬ったのです」
近衛前久という補助線を引くことによって、「本能寺の変」について、こうした新しい見方ができるのは魅力的だ。
後半は、戦国時代において想像以上にグローバル化が進み、信長と秀吉はイエズス会と深い関係を持っていたことを指摘している。こうしたことが、江戸時代の鎖国史観によって見えなくなっていたとも。
『本能寺前夜――西国をめぐる攻防』 (角川選書)は、織田勢力と西国の戦国大名・領主層との関係に着目することから、光秀が信長襲撃に至った背景について探ろうとした本だ。特に「毛利氏からの視点」を重視している。毛利氏には多数の同時代史料が残されているという。著者の光成準治さんは1963年生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究院特別研究者。
信長との合戦を繰り広げ、将軍の権威を利用して西国諸大名との連携を試みた毛利氏。一方、毛利氏の勢力拡大に反発する大名・領主層を抱き込む包囲網を目論んだ信長。西国経略において競合していた軍事指揮官の秀吉と光秀は、最大の敵・毛利氏との決戦と、天下統一とが近づくにつれ、立場に齟齬を生じさせる――というのが、本書の骨格だ。本能寺の変が起きる前に、織田勢力内ですでに軋みが生じていた。
光秀のライバル秀吉は、播磨攻略での失敗を、対毛利戦の成功で回復し、信長の厚遇を得つつあった。その結果、光秀を中心に模索されていた毛利氏との講和は不要になった。光秀がこだわっていた四国経略における講和路線も否定される。光秀に軍事指揮統括官として新たな活躍の場が与えられる蓋然性は極めて低い状況になっていた。このままでは完全失脚することが必定。そのとき、千載一遇のチャンスが巡ってきた。光秀はそれに賭けた――というのが著者の推論となる。本能寺の変の直前には光秀と秀吉との力関係や、信長との距離感が変わっていた、ということだろう。
光秀、信長関連ではないが、近畿一円に流布し、数百点にも及ぶ日本最大級の偽文書に光を当てた『椿井文書』(中公新書)も話題になった。大阪大谷大学文学部准教授の馬部隆弘氏の労作だ。
中世の地図、失われた大伽藍や城の絵図、合戦に参陣した武将のリスト、家系図......。貴重な史料として、学校教材や市町村史にも活用されてきた。しかし、すべて後世、たった一人の人物、椿井政隆(つばい まさたか、1770~1837)によって、創作されたものだった。
なぜ、そうした文書がつくられ、受け入れられてきたのか? 新史料の発掘、読み込みによって、新たな歴史像が明らかになる一方で、史料の恐ろしさが突き付けられた。
BOOKウォッチでは、関連で安部氏の『信長はなぜ葬られたのか』 (幻冬舎新書) のほか、『図説 明智光秀』 (戎光祥出版)なども紹介している。
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