NHKの2020年大河ドラマ「麒麟がくる」は、大河ドラマとして初めて、明智光秀を主人公に据える。主君織田信長を裏切った謀反人というイメージの強い明智光秀。「謎めいた前半生に光を当てる」とNHKの番宣資料は意気込んでいる。だが、最新の歴史研究の成果で、どうやら医者だったらしいことが分かってきた。本書『明智光秀』(NHK出版新書)は、英雄史観・陰謀論を排し、とことん実証的にその生涯に迫った本だ。
著者の早島大祐さんは、関西学院大学教授の中世史家。著書に『徳政令』(講談社現代新書)、『足軽の誕生』(朝日選書)、『室町幕府論』(講談社選書メチエ)などがある。
早島さんは、まえがきで「明智光秀の研究は開かれている」と書き出している。各種の史料データベースにインターネットで接続できるようになった上、明智光秀研究では、『新修亀岡市史資料編第二巻』(亀岡市史編纂委員会)、福島克彦氏らによる「明智光秀文書集成」(藤田達生・福島克彦編『明智光秀』八木書店)、そして早島さんが作成した「明智光秀の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版)などによって、光秀の足跡はだいたい分かるという。
その上で、序章は「どうやら明智光秀は医者だったらしい」で始まる。根拠はのちにふれるとして、その事実が明らかになった経緯が興味深い。
『織豊期主要人物居所集成』の準備報告会で、早島さんは明智光秀の居所と行動について報告した。何月何日、どこにいて何をしていたかを淡々と報告したという。15世紀まで公文書には年号が入っていたが、戦国時代の16世紀になると、きちんと公文書を作成できる人材が不足し年号のない文書が多いため、研究には事実の突合せが必要になるのだ。その過程で、光秀は京都代官期に施薬院(やくいん)全宗という医者の家で執務をしていたことが分かった。
さらに村井祐樹氏の論文「幻の信長上洛作戦」で紹介された『針薬方』という史料に、光秀から足利義昭の側近が『針薬方』の口伝をうけたと書かれていた。ある程度の医学知識があったことが伺われる。これらのことから早島さんは、光秀が当時の医者のネットワークに組み込まれていたと推測する。また、この口伝の時期と場所もある程度絞り込んだ。
そして、「越前の長崎称念寺(福井県丸岡町)、今の蘆原温泉のあたりにある時宗寺院の門前で、10年ものあいだ、牢人として暮らしていた」と書いている。そのことは「遊行三十一祖京畿御修行記」という史料に載っているという。
どうやって生計を立てていたのか? 横田冬彦氏の研究「医学的な知をめぐって」を援用し、医者=牢人だった当時の状況から、歴史の表舞台に登場する以前の光秀は牢人医師だったと見ている。のちに光秀が部下に送った手紙では、戦闘でケガをした部下を気遣い、ちゃんとした医者に診てもらえ、とアドバイスしていることから、それほど力量はなかったものの医学の心得があったことは間違いない、としている。
本書では、第1部の「第3章 行政官として頭角を現す」、第2部の「第5章 織田家中における活躍」など、織田信長を補佐して急速に地位を確立していく過程が書かれている。
第3部がいよいよ「謀反人への道」。通読して感じたのは、信長から要求された「パワハラ」とも思えるハードワークの酷さだ。天正9年(1581)から10年にかけて、「実にバランスの悪い仕事の振り当てられ方である」と指摘している。丹波・山城・大和の経営に軍事、さらに書状の伝達役や家康の接待などの細々とした"庶務"まで信長から言いつけられている。
その一方、信長は一族を優遇する人事を進めた。信長の側室となっていた光秀の妹、御妻木殿が天正9年8月に亡くなったことも痛手になったようだ。信長にとりなしてくれる存在がなくなり、不安になったと、早島さんは推測する。その証拠にすぐ家中法度を出し、織田家中への配慮とトラブル防止を家臣に求めている。
さて、天正10年6月2日未明に光秀は本能寺にて信長を討ち取る。これを可能にした軍事行動は、信長が整備を進めた道路拡幅のおかげだという。また秀吉がのちに「大返し」と語られる行動で、光秀に勝つのも道路がもたらしたものだ。
「麒麟がくる」では、長谷川博己さんが光秀に扮する。「最新の研究成果も踏まえ従来と異なる新たな解釈」での演出だという。本書の「光秀=医者」説も採用されるのだろうか。そういえば、この本はNHK出版から刊行された。その可能性は大いにあるだろう。
BOOKウォッチでは、明智光秀、織田信長関連では、『信長はなぜ葬られたのか』(幻冬舎新書) 、『信長の原理』(株式会社KADOKAWA) 、『図説 明智光秀』(戎光祥出版)などを紹介している。
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