「秘境」と聞くと、思わず身を乗り出してしまう。情報化社会で日本はもちろん、地球全体の均質化が進んでいるからだろう。まだそんなところがあったのかと驚き、軽い興奮を覚えることが多い。だから本書『秘境旅行』(角川ソフィア文庫)を思わず手に取った。残念ながら現在の話ではなかった。
著者の芳賀日出男さんは、各地の祭りや民俗を記録し続けている高名な写真家だ。1921年生まれ。慶應大学文学部卒。50年には日本写真家協会に創立者として入会し、祭りや民俗、伝統などをテーマに国内はもちろん世界100か国以上で撮影活動。大阪万博では「お祭り広場」のプロデューサーも務めた。『日本の民俗 祭りと芸能』『祝祭 世界の祭り・民族・文化』など70冊以上の著書がある。
本書は1962(昭和37)年刊の新書本を再編集して文庫化したもの。したがって掲載されている写真や文章は、半世紀以上前のものだ。写真はすべてモノクロ。
北は「ノサップ〈すさまじき流氷、それは国境の岬の春のことぶれ〉」から始まり、南は「久高島〈沖縄本島から離れた孤島に住む白衣の巫女と対面〉」まで、国内17か所を取り上げている。おおむね昭和30年代に調査・取材したものだ。北海道、東北、東海、北陸、中国、四国、九州が登場する。関東と近畿は出てこない。この地域では当時すでに「秘境」がなくなっていたということか。今では本書に登場している「秘境」も、大半が「消え去りし過去」になっていることだろう。
本書の17か所の「秘境」は、それぞれに興味深いが、とりあえず2か所だけ紹介しよう。
一つは「網走〈日本国籍を持つ北アジア系のオロッコ族を訪ねて〉」。これはなかなか貴重な記録だと思った。昭和36年の撮影だ。芳賀さんはオロッコ(ウイルタ)やギリヤーク(ニブフ)の人が、少数ながら網走市などに住んでいることを知り、彼らの「春をよぶ祭」の写真を撮りたいと思う。アイヌとは異なる別の北方民族だ。
オロッコやギリヤークは、もともと樺太や対岸のアムール川周辺、沿海州に住んでいた。本書によれば1935年の国勢調査では、南樺太にはオロッコ族が298人、ギリヤーク族が110人いたという。当時の南樺太は日本の領土だった。彼らは、「オタスの森」といわれる地域に集められていた。その後、戦争で日本が敗れ、樺太がソ連領になったことで、北海道に行くことを選んだ一部の人たちが、網走などに住むことになる。
芳賀さんは全く何の伝手もないまま網走を訪れる。最終的には、移住してきた彼らに民族衣装を着てもらい、伝統の神事「春をよぶ祭」の撮影ができた。博物館長に仲介の労を取ってもらった。当時は北海道内にオロッコとギリヤークの人々が10数世帯いたといわれる。ごくありふれた日本人の苗字を名乗っていた。今はどうなっているのだろうか。取材を終えた芳賀さんは「この人たちにはもう民族意識はないようだ」「ひたすら日本人の中に埋もれてゆくのを待っているのみである」と書き残している。
もう一か所、紹介したいのは「舳倉島〈海女二千名が夏を過す孤島! 裸体の楽園で暮す〉」だ。石川県の能登半島にある輪島市海士(あま)町は漁業で生きている。海に潜って貝などを採る海女が数多く住んでいた。実際にその漁をするのは、海士町からポンポン船で5時間もかかる日本海の孤島、舳倉島。周囲4キロほどの小さな島だ。
本書にその同行記が載っている。驚くのは海女の女性たちが、褌一丁で海に潜ることだ。その後ろ姿の写真が掲載されている。今ではおそらくダイビングスーツ姿なのだろうが、撮影当時(昭和28年と37年)は、まだそういうものがなかったのだろう。よくぞ撮影できたものだ。
本書を読んで痛感するのは、こうした珍しい写真はもちろんだが、芳賀さんの筆力だ。たとえば、海女たちが船から海に飛び込んでいく様子はこうだ。
「そして一息大きく吸い込むと、あざやかに水沫をあげて海底に潜り込む。今や海女は人魚にかわる。舟の上では陽に焼けて真黒な肌も海に入ると青白く見える。海女は両肘を体につけたまま、頭を下げて脚の動きだけでぐんぐん潜って行く」
本書ではその様子をとらえた写真も掲載されているが、この文章だけでもリアルな映像力がある。描写力と観察眼の細かさが並外れている。単なる写真家ではない。芳賀さんには、『折口信夫と古代を旅ゆく』『宮本常一写真図録 第3集』などもあり、民俗学のベースもある。加えて、よそ者を排除するはずの閉鎖社会に上手に入り込んでいく人間関係能力の巧みさもあったようだ。
本書ではこのほか、定番の「恐山」なども登場する。紹介されている各地の「秘境」については、それぞれをテーマに撮影や研究をしている人がいるが、全体を総覧できるのは芳賀さんぐらいしかいないだろう。
BOOKウォッチでは関連書をいくつか紹介済みだ。『縄文の女性シャーマン――カリンバ遺跡』(新泉社)はかつて北海道にいたと思われる謎の人々の遺跡を紹介している。先ごろ直木賞を受賞した『熱源』(文藝春秋)は、サハリンを舞台に先住民族と日本人やロシア人との交流を描く。『消えた山人――昭和の伝統マタギ』(農山漁村文化協会)はマタギに長期密着取材した貴重な記録。『イタコとオシラサマ―東北異界巡礼』(学習研究社)も同じく、東北の異界と深層に迫る。『幻島図鑑――不思議な島の物語』(河出書房新社)は、日本の「秘島」の中でも特に人々を引き付ける島を紹介している。
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