クリーム色や濃淡の褐色もあるが、煉瓦は赤がスタンダードだ。しかし幕末、最初に長崎で作られた煉瓦は黒かった。
黒の煉瓦は、中国煉瓦「磚(せん)」を模倣したもので、色と形から「こんにゃく煉瓦」と呼ばれた。オランダ人が日本で家を建てた際、香港、上海で使っていた磚を持ち込み、日本人がそれを模倣したからだという。日本の近代建築を扱う本書『近代建築そもそも講義』(新潮新書)には、今ではすっかり忘れ去られ、半ば潜在意識化した記憶が詰まっている。
著者の藤森照信さんは、近代建築、都市計画史が専門の東京大名誉教授で、東京都江戸東京博物館館長だ。『建築探偵の冒険・東京篇』(ちくま文庫)でサントリー学芸賞(1986年)を受賞。その方面の著作も多く、「建築探偵」と言った方が通りはいいかもしれない。
本書は「週刊新潮」に2015年から17年にかけて連載した「建築そもそも講義」から抜粋、再編集した。共同著者として大和ハウス工業総合技術研究所(奈良市)が加えられているのは、関係資料などの研究・提供があったのだろう。読み切り形式の68話が「天皇の行く先々に洋館出現」、「銀座煉瓦街計画と謎の技術者」など8つ講義にまとめられている。
では、煉瓦はなぜ黒から赤にかわったのか。そこにはいくつもの偶然があった。
1つ目。煉瓦が突然、大量に必要になった。銀座を煉瓦街にする計画が立てられたのだ。1872(明治5)年、御堀端から築地までの95ヘクタール(41町、官庁や商店、住宅4,879戸)を焼失した銀座大火が発生。これを受けて、計画は防火を主眼に置いたものだった。
2つ目。煉瓦はどうやって調達するのか。こんにゃく煉瓦は、日本では瓦用のだるま窯で焼かれた。窯の規模も小さく大量生産はできなかった。新しい窯が要る。担当したのはウォートルス。幕末に武器売買で名を挙げた「死の商人」トーマス・グラバーの下で働く技師だった。彼は計画立案時、維新の荒波をうまく泳いで明治政府にもぐり込み、御雇外国人建築家のトップになっていた。そしてもたらしたのが煉瓦を大量焼成できるホフマン窯だった。生産される煉瓦の色は赤かった。
ウォートルスは建築史上「謎の建築家」だった。英国人という触れ込みだが、アイルランド生まれ。専門も建築ではなく鉱山技師。煉瓦生産は鉱山事業に必須だ。気質は山師的で、煉瓦街計画は4年で完成するが、その途中でニュージーランドに渡る。長い間謎だったその後の足どりも紹介されている。
本書は、屋内でのスリッパにも着目する。ありふれていて疑問に思うことすらないが、スリッパは日本にしかない習慣なのだそうだ。
淵源は幕末1857年。米国総領事ハリスが江戸城登城を許される。土足のハリスを迎えたのは畳の上に敷かれた錦の布と、その上で草履をはいた将軍家定。以降、公的な場は「(履物を)脱がない(土足)」が原則となった。
この原則にもとづき、「和」の建築は「洋」をどう受け入れてきたか。それが、スリッパの習慣となった。明治初期、天皇は昼も夜も洋式の生活を送るようになる。決めたのは西郷隆盛だった。
新政府は天皇の性格付けを巡って判断を迫られる。和歌をよくする王朝文化の保持者として政治にも軍事にもかかわらずに過ごしてきたが、明治維新が導いた"王政復古"の理念に従い、基本的性格を変えなければならない......政治決定の場に臨むようにし、軍の統率者とならなければならない
そのように西郷は皇族の衣食住の洋風化を決めた。つまり近代という新しい世界の公的な場(土足の場)のトップ、というわけだ。
土足洋式は、皇族に始まって民間に浸透してゆく。役人や企業家たちは土足の役所や会社で仕事をして、自宅では靴を脱ぎ、板張りか畳の上で暮らすスタイルが始まった。そんな中、ごく一部の富裕層は、天皇を自宅に迎えるようになる。そのために別棟として設けたのが洋館だ。住人は洋館と伝統建築の自宅との行き来にスリッパ様の上履きを使った。その後、洋館が母屋と一体化して客間になり、土足が許されない畳間との間でスリッパの脱着が定着した、という流れになるそうだ。
こうした建築の歴史は、建築関係者ならいざ知らず、一般の現代人にとっては、もはや無用とも思われるかもしれない。しかし、それは一見だけのことだ。ちょっと大げさになるかもしれないが、人間の深層心理を建築が形成しているのではないか、と思わせるトピックも少なくない。スリッパの日本への定着だけではない。奇怪なものに変わっていった擬洋館(横浜・フランス海軍病院、イギリス仮公使館、兜町・第一国立銀行、金沢・尾山神社神門)なども日本人について考える材料になりそうだ。
藤森さんには『近代日本の洋風建築 開化篇』(筑摩書房)、『建築探偵東奔西走』(朝日文庫)、『建築史的モンダイ』(ちくま新書)、『建築探偵の謎』(王国社)など多数の著書がある。
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