嘘と正典
芥川賞、直木賞の候補作品が発表された。来年(2020年)1月15日に決まる。その中から、すでに単行本として19年に刊行され直木賞候補となっている小川哲さんの『嘘と正典』(早川書房)を紹介したい。奇想小説、歴史小説、SF小説など6篇からなる短篇集だ。「歴史」と「時間」をかけあわせたみごとな着想に魅了された。
このほか、19年に発表されたエンターテインメント小説には、果敢に現代社会の深層や抱える矛盾をえぐりだしたものが少なくなかった。記憶に残った作品を軸に振り返ってみよう。
表題作の短篇「嘘と正典」は実に読み応えがある。CIA工作員が共産主義の消滅を企てるという設定の野心作だ。冒頭の場面は、19世紀半ばの英国の裁判所。『資本論』を書いたマルクスの協力者だったエンゲルスの刑事裁判から始まる。そこから話は冷戦期のモスクワへ飛ぶ。
強固な反共主義者である工作担当員のホワイトは、あるエージェント志願の男と連絡を取る。KGBの罠かもしれず、連絡を見送っていたが、男が電子電波研究所の研究員であると身元を明かし、軍事機密の一部を提供したため、本物と判断、本部からもコンタクトが許可される。時空間通信技術の存在を知ったホワイトは、あるメッセージの送信をペトロフに依頼する。
その狙いは、共産主義の誕生を防ぐため、エンゲルスを有罪にし、オーストラリアに島流しにすることだった。そうすれば、エンゲルスから生活の援助を受けていたマルクスは破綻し、『資本論』も出版されず、共産主義は生まれないはずだった......。
そして近未来。時空間通信技術が確立されると、「歴史戦争」という名の諜報戦争が始まる。技術を手にした国々は自分たちに有利になるよう好き勝手に歴史の改変を始めた。こうしてオリジナルの歴史は「正典」と呼ばれるようになった。「正典の守護者」は「善意の科学者と歴史学者が共同で発足したグループが母体になっている」ということだが、改竄された歴史と「正典」が混在する世界とは、どんなものだろうと想像がふくらんだ。それは案外、現代のことかもしれない。
小川さんには2017年、日本SF大賞、山本周五郎賞を受賞した長編『ゲームの王国』(早川書房)もあり、将来が楽しみな作家だ。
ミステリーでは、民俗ミステリーとでもいうべき作品『まほり』(株式会社KADOKAWA)の印象が圧倒的に強かった。著者は2013年に『図書館の魔女』という和製ファンタジーでデビュー、シリーズ累計42万部という高田大介さん。探偵役の主人公は大学院の社会学研究科をめざす大学3年生。これほど、登場人物が社会学や歴史学の方法論を能弁に語り合う小説は、日本文学史上初めてではないだろうか。
上州の山村が舞台。天明年間の食人の事跡を伝える史料が写真付きで出てくる。さらに近世の農山村の貧困と因習が次々と語られる。これはもはやミステリーなのか歴史の講義なのか、分からなくなる。
江戸時代に幕府からある職能を与えられた村は、明治以降、周囲から孤立して生き延びてきた。そこで行われてきたある儀式。フィクション化することによってぎりぎり成立する、きわどい記述が続く。
陰鬱たる近世史の闇がどろりと現代に流れ込んだような物語だ。肌がざわめくような恐怖がじわりと押し寄せる読後感。近世日本史に興味のある人に勧めたい一冊だ。
エンターテインメント小説で、評者がいま一番はまっているのが、赤松利市さんだ。今年は『犬』(徳間書店)と『ボダ子』(新潮社)の2冊を紹介した。
「色と欲で破滅していく人間が私のテーマ」と語っている赤松さん。どの作品にも「色と欲」にまみれた人間たちがこれでもかと登場する。
『犬』は西日本をめぐるロードムービーのような作品。トランスジェンダーの二人が主人公だ。老境を迎えた「ママ」と若者がすれ違いの逃避行をする。暴力的な場面も出てくるが、トランスジェンダーへの作者のまなざしが、とても温かい。
『ボダ子』の「ボダ」とは「ボーダーレス」の意味。境界性人格障害でリストカットを繰り返す赤松さんの実の娘がモデル。
「週刊東洋経済」(2019年6月15日)のインタビューで、本書の「主人公の大西浩平は100%私です。彼の経歴はそのまま私の経歴です」と顔を明かして告白している。
会社が倒産した大西は東日本大震災の復興工事にわく宮城県の工事現場で働き始める。タイトル通り、娘の障害に向き合う大西の父親としての側面も描かれるが、白眉は、膨大な復興資金が流れ込み、変調をきたしている被災地の現場のディテールだ。
工事現場には全国から労働者が集まり、ピンハネ、頭数の水増しなど不正が横行している。営業部長の肩書きを持つ大西だが、現場では労働者のいじめの格好のターゲットとなる。
一発逆転をねらい、儲け話を探す大西は、ひょんなことで知り合った女性に入れ込む。暴力と金と性のさまざまな様相が執拗に描かれる。東日本大震災の被災地について、これほどあけすけに書いた小説は初めてだろう。また、これほど共感を呼ばない主人公もめったにいない。しかも著者そのまま、というところに小説家の志を見た。
エンターテインメント小説だが、「99%実話」という噂で書店から消えた問題作『トヨトミの野望 小説・巨大自動車企業』(講談社)の続編として出たのが、『トヨトミの逆襲』(小学館)だ。
著者は覆面作家の梶山三郎さん。トヨタ自動車の内幕をフィクションで再現したと評判になった。前作では元社長の奥田碩氏がモデルとも言われ、創業家との確執が描かれていた。トヨタ本社に近い愛知県内で「禁書」のような扱いになり、「名古屋界隈の書店からすべて消えた」「自動車業界に近いある経営者が"99%事実"と言った」など業界を震撼させた。
続編は舞台がCASE、つまりC=Connected:コネクテッド、A=Autonomous:自動運転、S=Shared:ライドシェア、E=Electric:電気自動車――と呼ばれる4つの技術の大波が押し寄せている現在に移っている。CASEの波は「21世紀の産業革命」と呼ばれ、アメリカの巨大IT企業が先頭を走っていると言われる。果たしてトヨトミ自動車はこの荒波にどう立ち向かうのか。
前作同様、トヨトミ社内の技術開発の迷走ぶりや人事をめぐる暗闘がつまびらかに描かれている。自動車業界の人にとって必読の書となるだろう。
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