本を知る。本で知る。

結婚で心の平穏は得られるのか? 金原ひとみが描く、6人の男女の「不穏な」結婚生活

アタラクシア

 「望んで結婚したはずなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう──」。これ、わたしの心の声? と思った人もいるのでは。

 今回ご紹介するのは、金原ひとみさんの小説『アタラクシア』(集英社文庫)。第5回渡辺淳一文学賞受賞作。2019年に単行本として刊行され、今年5月に文庫化された。

 「アタラクシア」とは「心の平穏」の意味で、「欲望を絶って禁欲的に平穏を目指すこと」だという。平穏を求めながら、不穏なほうに傾いていってしまうことはある。たとえば結婚もそう。

 本作では、「ままならない結婚生活に救いを求めてもがく男と女」が鮮烈に描かれている。

 この世界を生きるには、あと一つだけ支えが足りない。いつもその一つを探している人たちへ。──金原ひとみ

訳ありな男女

 本作は、6人が順に語り手となる。夫婦、恋人、友人、同僚、姉妹、彼らはそのいずれかの関係にある。金原さんは「それぞれ変態性を持った人たちを書きたい」と思っていたそうだが、不倫、尾行癖、DV、虐待、パパ活など、訳ありな男女が次々と登場する。

 最も幸せな瞬間を、夫とは別の男と過ごす、元モデルで翻訳者の由依(ゆい)。浮気する夫や文句ばかりの母親、反抗的な息子に、限界まで苛立つパティシエの英美(えみ)。妻に強く惹かれながらも、何をしたら彼女が幸せになるのか分からない作家の桂(けい)......。

 誰に視点を置くかで物事の見え方は変わってくるわけだが、ここでは異なる悩みを持つ2人の女性にスポットを当てる。

何一つ信じられないそして今に縋る

 由依は、パリで知り合った日本人シェフと恋人関係にある。由依にとって彼といる空間は、何もかもが完璧だった。

 「私たちの間には何の諍(いさか)いも利害も邪推もない。ただ好きという気持ちだけで私たちは繋がっている。(中略)彼のことと私のこと、二人のこと、今はそれだけが考えるに値するものであるという事実に眩暈(めまい)がしそうだった」

 結婚して8年になる夫の桂がいるが、「離婚したい」とあっさり言ってしまうほど、由依のなかで夫婦関係は終わっていた。ある人物のセリフに「男はじたばた浮気するけど、女は息するように浮気するだろ」とある。由依はまさにそのタイプで、じつに淡々と不倫している。

 何を考えているのか分かりづらい由依に、夫も恋人も翻弄される。目を引く容姿とミステリアスな雰囲気で魅力的なのだろうが、薄情な女にも見える。それが由依のパートに来ると、彼女なりの行動原理があることが分かってくる。

 由依の人生には「独立した事実」があるだけで、好きだから結婚する、結婚しているから一緒に暮らす、というふうには考えない。恋人と触れ合う瞬間、体は歓喜する一方で頭は「歓喜の先にある無常」を見ている。由依にとって、今この瞬間と次の瞬間に連続性はない。

 「人はどうしてこんな不確実性の塊なんだろう。確かなものが欲しくて言葉や温もりや思考を積み重ねても一瞬で爆発して放射線状に散り散りになってしまう。だから私は信じられない。自分も人も人生も記憶も明日も今日これから起こることも。何一つ信じられないそして今に縋る」

求めて手に入らなかった願い

 英美は、由依の恋人の店でパティシエをしている。プライベートでは、浮気して帰ってこない夫、折り合いの悪い母親、問題を起こす息子との生活に、もううんざりしていた。

 夫の2度目の浮気が発覚したあたりから、誰からも愛されなくても何とも思わない、「人の意見なんて気にしない私は私で完結してる」、そんなさばさばした女でありたいと思っていたが。

 「私は全くもってさばさばもしていなければ自分にとっても誰かにとっても唯一無二でもなく、怒りと羨みと妬みと僻(ひが)みで構成されていたのだ」

 ある日、夫が優しくなった。これまでは浮気をすると扱いが雑になっていたのに。英美のなかで夫への情はとうに尽き果て、「何の役にも立たないが常にそこにある夫というオブジェ」くらいにしか思っていない。だから何の期待もないが、違和感はあった。

 すると、「目の前にロールカーテンがばさっと下ろされたように視界が真っ白」になるほど、あまりにもショックなことが......。

 「誰かに愛おしいと思われたかった。強烈に、誰かに大切に思われたかった。ずっと押しとどめてきた、求めて手に入らなかったら悔しいから、心の奥に押しとどめてきた願いが強烈に溢れ出した。誰かに、気が狂うほど求めてもらいたかった」
book_20220704033318.jpg

 ある女性は「ドラマチックなことなど何もない、自分の身の丈にあった温(ぬる)い幸せを享受しながら生きていたい」と願い、またある女性は「熱烈に愛されて愛の言葉を囁かれその瞬間に殺されたい」と願っている。

 何が平穏か、何が幸福か。夫婦間でも価値観が一致するとは限らない。本作に出てくるさまざまな夫婦を見れば、「望んで結婚したはずなのに......」という心の靄が晴れるだろう。熱のこもる文章に唸り、ただただ圧倒された。


■金原ひとみさんプロフィール

 1983年生まれ。2003年『蛇にピアス』で第27回すばる文学賞を受賞し、デビュー。同作品で04年に第130回芥川賞を受賞。10年『TRIP TRAP』で第27回織田作之助賞を、12年『マザーズ』で第22回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を、20年『アタラクシア』で第5回渡辺淳一文学賞を、21年『アンソーシャルディスタンス』で第57回谷崎潤一郎賞を受賞。


※画像提供:集英社



 


  • 書名 アタラクシア
  • 監修・編集・著者名金原 ひとみ 著
  • 出版社名集英社
  • 出版年月日2022年5月25日
  • 定価836円(税込)
  • 判型・ページ数文庫判・368ページ
  • ISBN9784087443837

オンライン書店で詳しく見る(購入もできます)

小説の一覧

一覧をみる

書籍アクセスランキング

DAILY
WEEKLY
もっと見る

漫画アクセスランキング

DAILY
WEEKLY
もっと見る

当サイトご覧の皆様!

おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!

出版社の皆様!

御社の書籍も、
BOOKウォッチに
掲載してみませんか?