2022年2月5日急逝した作家・西村賢太さんの遺作『雨滴は続く』(文藝春秋)が、刊行された。「最後の私小説作家」と呼ばれ、独特のキャラクターで知られた西村さんの突然の早すぎる死を悼むファンは多い。本書は西村さんが文芸誌にデビューした頃を書いた作品。1000枚の畢生の大作は芥川賞候補になったところで「未完」のまま終わっている。
西村さんは1967年、東京都江戸川区生まれ。中学卒業後、肉体労働をする日々の中で知った大正期の私小説作家、藤澤清造(1889-1932)の「没後弟子」を自称し、藤澤の月命日の29日には毎月、石川県七尾市にある菩提寺への墓参を欠かさないほど尊敬していた。
だが、自らも作家にならなければ「没後弟子」として格好がつかないと思い、同人雑誌に入り、小説を書き始める。すると予想外の僥倖が訪れる。初めて載せてもらった作品が文芸誌の「同人雑誌評」コーナーで優秀作に選ばれ、そのまま転載されることになったのだ。
本書の主人公も西村作品ではおなじみの「北町貫多」で、文芸誌も文豪春秋の「文豪界」など虚構化されているが、作品名だけは「けがれなき酒のへど」など、事実のままである。
同人誌「煉瓦」(2004年7月号)に掲載され、「文学界」(同年12月号)に転載された「けがれなき酒のへど」を収めた『暗渠の宿』(新潮社、2006年)を評者は当時読み、ぶっとんだのを記憶している。
「大井か平和島の埠頭に行き、冷凍のイカやタコのかたまりを抱っこして」得た日当を、ソープランドでの買淫に費やしていた主人公は、そこで働く女性に好意を持ち、文学全集を売って通い詰める。だが、借金の返済を頼まれ90万円をだまし取られてしまう。
その後、菩提寺で藤澤清造の追善供養を営む主人公が登場、読経を聞きながら反省する。藤澤の全集出版の資金の一部を女性に使い込んでいたからだ。法要の後、酒を飲み過ぎ、七尾に借りているアパートでへどを吐く場面で終わっていた。
買淫相手への入れ込みと物故作家へ傾倒する主人公のアンバランスぶりが印象的だったが、遺作まで一貫していた。この一件は、本書でも言及される。旧知の古書店主に借金を申し込み、女が原因であることがわかると、こう言われる。
「待てよ。お前さん、何年か前にも今と同じことを言いだしたときがあったな......確か、それで相手の女に九十万円とかふんだくられて、結局泣き寝入りしてたじゃないか」
自分の中ではその恥辱は消化し、「まるで他人事のようにして小説風にまとめることもできていた」し、女を見る目が養われたと思っている貫多。その手の女は、「ざっと百数十人を実地検分していると豪語する始末だ。
デビュー作以来、文芸誌への寄稿が続く。自分も作家になれそうだと精神は高揚するが、ボツにされると落ち込む。こころの振り子運動は、貫多がかかわる二人の女性との愛憎にもシンクロする。
七尾で知り合った地方紙記者・葛山久子と東京のデリヘル嬢・川本那緒子。二人を好きになったり嫌いになったり揺れ動く。
「清流と濁水。新聞記者と、淫売婦」。こう比較し、自分勝手に妄想を膨らませる。藤澤の内妻が亀戸あたりの私娼窟で春を売っており、なじみの客として知り合ったことに自分を重ねて悦に入っていたのだ。
「--まあ、あれだよな。何もそこまで清造を真似る必要と云うのも、ねえわな」 「師匠は、師匠。ぼくは、ぼく」
そう割り切り、葛山久子へ接近を図るのだが--。
購談社の文芸誌「群青」(言うまでもなく講談社の「群像」がモデル)に一度ボツにされ、「本気を出して書いた」のが「どうで死ぬ身の一踊り」だった。藤澤の詠句の一部からタイトルをつけた。同作が06年、芥川賞候補となる。簡単に候補になったことに拍子抜けしていた。
「うわ......本当に候補とか来ちゃったよ。さすがは、ぼくだな」
そこで、本書は終わっている。実際に同賞を受賞するのは5年後、11年の「苦役列車」まで待たなければならなかった。亡くならなければ、受賞するまでのことが書かれていたはずだ。「未完」に終わったのが返す返すも残念である。
西村さんの尽力により藤澤の代表作『根津権現裏』が新潮文庫で復刊された。西村さんが自費での刊行を準備してきた『藤澤清造全集』(全5巻、別巻2)は、結局実現しなかった。意識があれば本当に心残りだっただろう。
西村さんが自分の分身として小説に造形した主人公、北町貫多の言動は一見すると不埒だが、西村さんの生き方には藤澤清造を顕彰するという太い一本柱が通っていた。
無頼を装っていた西村さんだが、本書によると、物故私小説作家の初版本や全集が並んだ充実した書斎環境のもと、念入りなシノプシスを準備してから執筆するなど、創作にかける並々ならぬ情熱がうかがえる。私小説作家の舞台裏を明かした作品として読みごたえがある。
BOOKウォッチでは、西村さんの中短篇集『羅針盤は壊れても』(講談社)と日記シリーズの第6弾『一私小説書きの日乗 新起の章』(本の雑誌社)を紹介済みだ。
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