作家の自伝的小説というと、どんな作品を思い浮かべるだろうか? 林芙美子『放浪記』、三島由紀夫『仮面の告白』、村上龍『限りなく透明に近いブルー』、リリー・フランキー『東京タワー』など、私小説の伝統が強かった日本では、なんらかの自伝的要素がある作品は数多い。それらが人生の一断片を切り取って書いたものだとしたら、本書『君がいないと小説は書けない』(新潮社)は、作家が作家として生成される過程と創作に向かい合う日々を描いた異色の自伝的小説である。
著者は2010年、『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞した白石一文さん。白石さんが文藝春秋に勤務する記者、編集者だったことは知られているが、その内実を詳細に明かしている。評者は2000年のデビュー作『一瞬の光』以来、ほぼすべて白石作品を読んでいるが、それらがどういう状況で書かれたのか本書を読み、うかがい知ることが出来た。作家がここまでプライベートを明かすのも珍しいだろう。
作中、文藝春秋は「A社」とされ、人物はイニシャルまたは仮名で登場する。小説なので、いくぶん虚構化はされているが、評者も知る人が何人も出てくるので、大筋では白石さんの体験通りなのだろう。その上で、本書の読みどころは大きく二つある。
一つは、小説家(父も直木賞作家の白石一郎氏)の息子に生まれ、小説家になることを意識して成長してきた主人公の数奇な運命。二つ目は大手出版社の中での厳しい競争で主人公が見た先輩や上司を通じて会得した人生哲学だ。
現在、作家となっている主人公の日々の記述の中に、出版社時代のことが回想される形で小説は進む。週刊誌の編集部に配属された主人公は頭角を現し、やがて月刊誌で政治記事を担当するエリート編集者として活躍する。早稲田大学政治経済学部からジャーナリスト→作家→政治家と夢見た人生行路を順調に歩んでいた。しかし、パニック障害を起こし、郷里の福岡に帰り一年近く休職する。会社に復帰したが、配属先は「資料室」だった。38歳のときに妻子を残して家を飛び出し、経済的にも困窮する。その中で学生時代以来、ふたたび小説を書き始める。そして正式な妻ではないが「ことり」という女性と出会い、一緒に暮らすようになり、作家としてデビューする。会社は社員が作家として活動するのを望まなかった。対照的な社風のC社(本書の版元である新潮社と思われる)の編集者や各社のさまざまな編集者が次々に登場する。
小説の設定やあらすじをあまり紹介してもしょうがないと評者は思っているが、本作は自伝的小説ということなので、少しふれたいことがある。それは二人の引越し好きだ。一緒に暮らし始めてから約一年ごとに引越しをしたという。家出してから現在のマンションで22か所目というから異様だ。「彼女が好きなのは引越しではなく、引越し作業の方だった」と書いている。二人はなぜ引越しをするのか。
引越しを重ねるうちにどこにも定住したくなくなったという。行先は東京に限らない。神戸にもいたし、いまはどこか金沢を思わせる北陸の都市に住んでいるようだ。編集者にも転居先を教えないという主人公(連絡先はC社の文芸編集部宛て)と「妻」とは、おしどりのようなカップルだ。しかし、彼女の実家の事情で、しばらく離れて暮らすことになり、ある疑念が浮上する。少しミステリー仕立てのこの疑惑を軸に、物語は進む。
そこに断片的に、かつての先輩、上司の生き死にが紹介される。会社勤めから得た教訓は、「私たちは人間関係で修行する必要などない」ということだった。社長になった人に共通していたのは、「仲の良かった上司が社長になった」という一点であると。それならば、何をあくせくすることがあるのか。
「私たちはお互いの"お眼鏡にかなった人たち"とだけ思う存分仲良くすればいいのである」
このような箴言や警句めいたフレーズがあちこちに出てくるのが魅力だ。小説というより、著者の人生哲学と幸福論が披瀝されている部分も多い。
さて、ひょんなことから出会い、お互いしか見ていないような二人に降りかかった危機。「君がいないと小説は書けない」という主人公はどうなるのか......。
BOOKウォッチでは、白石さんの30万部のロングセラー『私という運命について』(角川文庫)と、「これで直木賞を取りたかった」と言わしめた最近の自信作『一億円のさようなら』(徳間書店)を紹介済みだ。
金沢を舞台にした後者はあまり話題にならなかったようだが、評者は最高傑作だと思う。そこに住まなければ書けない奥行きのある作品だ。併せて読んでほしい。
本稿で週刊誌と書いたのは、「週刊文春」、月刊誌は月刊「文藝春秋」であることは言うまでもない。芥川賞、直木賞の事務局である日本文学振興会に出向していたときのことも出てくる。出版社や作家志望の読者は必読だ。
なお、第93回キネマ旬報映画賞で日本映画1位となった映画「火口のふたり」(2019年公開、荒井晴彦監督)は、白石さんの同名の小説が原作だ。承諾を得て、舞台を福岡から秋田に移して撮影された。
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