小説講座の人気講師がセクハラで告発された。皮を剥がされた体と心は未だに血を流している――。
父、母、そして瀬戸内寂聴さんをモデルに3人の「特別な関係」を描いた『あちらにいる鬼』が話題となった井上荒野(いのうえ あれの)さん。
本書『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』(朝日新聞出版)は、被害者と加害者、その家族、受講生たち、さらにはメディア、SNSを巻き込みながら、性被害をめぐる当事者たちの生々しい感情とハラスメントが醸成される空気を、重層的に活写したフィクション。
柴田咲歩は、動物病院の看護師をしている。受付カウンターにいると、飼い主が読んでいた新聞の記事が目に入った。記事になっている男の、名前と、顔とが。その瞬間、あの男の匂いがよみがえった。なんでもない、と思おうとしたができなかった。
「誰も知らない。みんな、私の身に起こったことは、何も知らない。咲歩は思う――夫もみんなもじつは知っているのかもしれない、と感じるのとまったく同じ頻度で、同じ寒気とともに。知られることをこれほど怖がっているのにもかかわらず、誰も知らない、ということに傷つけられる」
咲歩の中でどうにか支えてきたものが、ぐらぐらと揺れはじめる。ずっと大丈夫なはずだった。もう忘れられるはずだった。それなのに。
月島光一は、カルチャーセンターで小説講座の講師をしている。元受講生が芥川賞を受賞し、月島はメディアからカリスマ講師として注目されていた。
月島は講義が終わると、「アフター講義」と称して受講生たちと居酒屋に移動する。そして、お気に入りの受講生を自分の隣に座らせる。個人的に連絡を取って呼び出し、ふたりきりで会うこともあった。
そんなある日、月島のもとに週刊誌記者から電話がかかってきた。
「柴田咲歩さん......旧姓、九重咲歩さんのこと、ご存知ですよね」
「彼女は月島さんのことを、セクシャル・ハラスメントで告発しています。それについてお話をうかがいたいのですが」
7年前、咲歩は月島の小説講座の受講生だった。特別扱いされることは嬉しかったが、それが毎回のことになると落ち着かなくなってきて、ときに恐怖を感じることもあった。それでも、月島の指導が自分の血肉になるようで、次第にそうは感じなくなっていった。
だからホテルのロビーに呼び出されたときも、それほど不安ではなかった。月島を信じたいと思うあまり、心が麻痺していた。
部屋に入ると、月島に押し倒された。咲歩は抵抗しなかった。「月島先生が喜んでくれているから」「この部屋までついてきたのは私なのだから」と、自分が月島と「セックスしている理由」を数えた。
「今思えばあのときすでに、心が檻に入っていた。あるいは(中略)膜が目だけではなくて体中を覆っていて、感覚のすべてが歪んでいたのだ」
そして現在。記事を目にしたことをきっかけに、封じ込めてきた記憶がよみがえり、咲歩は耐えきれなくなって月島を告発した。
セクハラ報道は頻繁に目にしても、当事者の生の声はなかなか聞こえてくるものではない。それが本作では、被害者、加害者、加害者の妻、被害者の夫......と視点人物が交代しながら、それぞれの心境がじつにリアルに語られる。
告発された直後、月島は受講生に向け「誤解を恐れずに言いますが、この種の欲望は、それこそしかたがない、という考えが僕の中にはある」と弁解する。
「いい小説を書いてほしいという欲が僕の中にはあって、まあ相手が女性の場合は、ここに性欲も加わる、(中略)これは僕の生きかたというか、生きるということに対しての考えかたなんですよ。(中略)僕が間違っていたのは、彼女はそのことをわかっているはずだと、思い込んでしまったことです」
はいそうですか、と受け入れるわけにはいかない。一方で、これが加害者の論理なのか、と思わされる。
一方の被害者は「どうして断れなかったのか」「どうして一度ならず二度、三度と言いなりになったのか」と非難されることがあり、それは「セカンドレイプ」と呼ばれる。「そうするしかなかったのだ」。何度考えても、咲歩の答えはそれになった。彼女の苦悩は察するに余りある。
「私は彼に生皮を剥がされた」――。体も心も血を流しながら、ようやく声を上げた被害者の口から出た「生皮」という言葉。あまりにも鮮烈で頭から離れない。
そして、読みはじめたらもう止まらない。著者の圧倒的な筆力を感じた。映画界での性加害が連日報道されている今、傍観者ではなく当事者目線でセクハラを考えるためにも、本作がひとりでも多くの人に届いてほしい。
■井上荒野さんプロフィール
1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し、デビュー。2004年『潤一』(新潮文庫)で第11回島清恋愛文学賞、08年『切羽へ』(新潮社)で第139回直木賞を受賞。『あなたが うまれた ひ』(福音館書店)など絵本の翻訳も手掛けている。
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