「作者の父井上光晴と、私の不倫が始まった時、作者は五歳だった」(瀬戸内寂聴)。
井上荒野(いのうえ あれの)さんの衝撃の問題作『あちらにいる鬼』(2019年、朝日新聞出版)が、ついに文庫化された。
父で小説家の井上光晴(1926~1992)と瀬戸内寂聴さんの不倫関係、それを静かに見守った母をモデルに、逃れようもなく交じり合う3人の「特別な関係」を、長女である著者が描ききっている。
朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日経新聞、週刊現代、週刊朝日、女性自身、週刊ポストほか、各紙誌で大反響。このたび映画化も決定した。
なお、本作はルポルタージュではなく、基本的には創作。著者と寂聴さんはもともと交流があり、寂聴さんから聞いた話も参考にしたそうだ。
あらすじは以下のとおり。
1966年春。人気作家・長内みはるは徳島への講演旅行をきっかけに、戦後派を代表する気鋭の作家・白木篤郎と男女の仲になる。
一方、白木の美しい妻・笙子は繰り返される情事に気づきながらも心を乱さず、平穏な夫婦生活を保っていた。
しかし、みはるにとって白木は肉体の関係だけに終わらず、「書くこと」による繋がりを深めることで、かけがえのない存在となっていく。
2人のあいだを行き来する白木だが、度を越した女性との交わりは止まることがない。本作は、みはると笙子の視点から交互に語られる。白木を通じて響き合う2人の行き着く先は――。
ここでは、みはると白木が出会った頃を紹介しよう。夫を捨て、子供を捨て、恋人と同棲していたみはる。白木とは、講演旅行の日が初対面だった。
「少年のようなすっきりした体つきで、しかし眼鏡の奥の目はぎらぎらしていて、男のアクが濃くあらわれていた」
飛行機で隣の座席になった。ふいに飛行機が揺れはじめた時、みはるの腕に白木が触れた。「こわかったら、僕にしがみついていていいですよ」。怯えているのは明らかに白木のほうで、みはるは笑いそうになるのを堪えた。
「滑稽だったが、可愛らしくも思った。大きな声でずけずけと話すこの男(ひと)が、生きることにそんなにも、それこそしがみついているなんて」
さほど興味のない男のはずだった。しかし、行動をともにしたわずかのうちに、恋人から白木へと心は移っていた。徳島から戻り、白木の作品を改めて読んだみはるは......。
「胸がざわめくのを感じた。小説というのはこんなふうにも書けるのか、こんな小説を書いてみたい、と思った。(中略)自分が知りたがっているのは白木の小説の方法であるとともに、白木そのひとであることに気がついた」
■井上荒野さんコメント
「構想から本にまとめる時間を含めると四年半くらいかかっていると思います。『ご両親と寂聴さんのことを描いてみませんか』という依頼を受けたときには、自分のなかに書くという選択肢はありませんでした。その後、寂聴さんの体調があまりよくない時期に、そろそろお目にかかっておかないといけないという気になって、寂庵にお邪魔したんです。幸い寂聴さんはとてもお元気で、半日くらいずっとお話して。その間、寂聴さんはずっと父の話をしていたんですね。『井上さんはこんなことを言ったのよ、あんなことをしたのよ』って。それを聞いていると、『ああ、寂聴さんはほんとに父のことが好きだったんだ』と思いました。それで、すごくぐっときてしまったんです。『寂聴さんは父との恋愛をなかったことにはしたくないんだな、私が書かないといけないんだな』と思いました」
■瀬戸内寂聴さんコメント
「五歳の娘が将来小説家になることを信じて疑わなかった亡き父の魂は、この小説の誕生を誰よりも深い喜びを持って迎えたことだろう。作者の母も父に劣らない文学的才能の持主だった。作者の未来は、いっそうの輝きにみちている。百も千もおめでとう」
タイトルの「鬼」には、父の愛人に対する敵意が込められているように思える。しかし、著者はインタビュー(2019年2月8日「好書好日」)で「寂聴さんから見たら母のことかもしれないし、母から見たら寂聴さんのことかもしれない。父が鬼ごっごの鬼であるというイメージも浮かびました。『今、鬼はあっちの人のところにいる』みたいな、ね」と語っている。
子どもが親の不倫を、しかも不倫相手の話を参考に小説化するとは、2重、3重に驚かされる。映画化にあたり、再び話題沸騰間違いなしの本作。これは読まずにはいられない。
■井上荒野さんプロフィール
1961年東京都生まれ。89年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞、2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、08年『切羽へ』で直木賞、11年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、16年『赤へ』で柴田錬三郎賞、18年『その話は今日はやめておきましょう』で織田作之助賞受賞。著書に『夜をぶっとばせ』『悪い恋人』『そこにはいない男たちについて』『ママナラナイ』『百合中毒』など多数。
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