「いつになったら、私はあなたのいい子になれますか。いい子になれば、あなたはその手で私を撫で、優しく抱きとめてくれますか」――。
役者・映画監督として活躍する小川紗良さんの初小説『海辺の金魚』(ポプラ社)が刊行された。6月25日公開の映画「海辺の金魚」は、小川さんの長編初監督作品となる。本書は映画の世界を膨らませ、小川さん自ら小説化したもの。
児童養護施設を舞台に、18歳の少女と子どもたちの成長を温かい視点から描いた連作短編集。ちょっと不思議な「海辺の金魚」というタイトルに、小川さんの祈りが込められている。
「金魚は海では生きられません。観賞魚として退化したからです。それでも、私はもう一度海へ連れ出したいと思ったのです。映画の主人公が、私が、そしてあなたが、自分自身の人生を歩みだせるように」(映画「海辺の金魚」公式サイトより)
本書は、映画をベースにした表題作「海辺の金魚」、「みっちゃんはね、」、「星に願いを」、「花びらとツバメ」の4編を収録。映画では描かれていない子どもたちや主人公の姿まで掘り下げて描かれている。ここでは「海辺の金魚」を中心に紹介していこう。
児童養護施設で暮らす花は18歳になる。施設に来て10年。翌春には施設を出るきまりだが、いまのところ将来の夢も希望もない。花は自分の母親のことを「あの人」と呼ぶ。
「あの人のいない楽園で、私は人魚姫のごとくかけがえのない他の誰かと出会うのだ。終いには海の藻屑になってでも、私はここではないどこかで、あの人ではない誰かと巡り会い、まともな人間になることを夢見た」
「あの人」が事件を起こしたのは10年前。花と一緒に訪れた夏祭りの会場で人々の命を奪い、無差別殺人の罪で逮捕・勾留された。
事件発生直後、花には何が起きているのかわからなかった。不穏な空気の中、花は直感した。「あの人が何か取り返しのつかないことを犯してしまったのだ」。「ママ!」と駆け寄ろうとしたが、「花、いい子でね」とだけ言い捨て、「あの人」は遠くへ行ってしまった。
「あの人の言ういい子というのが、一体どんな子を指すのかわからなかった。たったひとつわかるのは、私はそれには程遠いということだ」
この児童養護施設では、2歳から18歳までの子どもたち7人が、施設長と保育士と暮らしている。親が病気になった子、経済的な問題で家庭では暮らせなくなった子、身体や精神に深い傷を負った子など、それぞれに事情を抱えている。
花が18歳を迎えた日、晴海という8歳の女の子が施設にやってきた。胸に抱えたボロボロのウサギのぬいぐるみをギュッと握りしめ、小さな肩を硬直させて立ち尽くしていた。
「その小さな身体で、か弱さと勇ましさの絶妙なバランスを保ちながら立っている姿を見つめた時、私はようやく気がついた。晴海は、十年前の私に似ている」
ある時、花は晴海の手の甲にタバコの痕のような火傷痕を見つける。「何かから遠ざかりながらも、この日常をどうにか歩もうとしている。小さな手にできる限りの力を込めて、目の前の現実にしがみついている」。そんな晴海に、花はかつての自分を重ね合わせる。
花の目から見れば、事件を起こす前から「あの人」はとうに壊れていた。心に空いた穴を埋めるように、花を繋ぎ止めていた。「あの人」にとっても、花にとっても、互いが世界の全てだった。その世界を、「あの人」はある日突然、自らの手で壊してしまった。
「世界の全てを失った私は、あの金魚と同じように、日も射さず雨も降らない水槽の中を、十年間ただひたすらに泳いでいた。(中略)いい子を装ってぐるぐると泳いでみせたが、泳ぐほどに虚しさが渦巻いて押し寄せた」
巣立つまでの時間はあとわずか。海では生きられない金魚が「海辺の金魚」となるように、これまで選ぶ余地のなかった人生から自分の手で選び取った人生へ、見たことのない世界へと、花は歩み出せるか――。
詩的な文章から淡い映像が見えてくる、そんな読み心地だった。「人魚姫」「みにくいアヒルの子」「マッチ売りの少女」「親指姫」になぞらえたシーンもあり、童話を読んでいるようでもある。役者・映画監督・作家の顔を持つ小川さんのみずみずしい感性にふれた気がした。
■小川紗良さんプロフィール
1996年東京生まれ。役者、映像作家、執筆家。早稲田大学文化構想学部卒業。高校時代に映像制作を始め、並行して役者としても活動を開始。大学時代に監督した短編・中編作が、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭、PFFアワードなどに入選。長編初監督作品「海辺の金魚」は、韓国・全州国際映画祭、イタリア・ウーディネ極東映画祭に正式出品される。役者としてもNHK朝の連続テレビ小説「まんぷく」、「アライブ がん専門医のカルテ」「フォローされたら終わり」など数多くのドラマに出演。映画「ビューティフルドリーマー」(本広克行監督、2020年)では主演を務めた。本書が初の小説執筆となる。
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