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書いておいてよかった「断片的回顧録」

すべて忘れてしまうから

 いまはない喫茶店、帰りがけの駅のホーム、予定のなかったクリスマスイブ、点滴の終わりを告げるナースコール、安いビジネスホテルの廊下、知らない街のクラブ、朝のコンビニの最後尾、新幹線こだまの自由席、民宿の窓でふくらむ白いカーテン、居場所のないパーティー会場――。

 燃え殻さんの第二作となる最新刊『すべて忘れてしまうから』(扶桑社)は、自らの人生を情感豊かに振り返る50本のエッセイを収録。本書のテーマは「断片的回顧録」。帯にはこう書かれている。

 「ふとした瞬間におとずれる、もう戻れない日々との再会。ときに狼狽え、ときに心揺さぶられながら、すべて忘れてしまう日常にささやかな抵抗を試みる『断片的回顧録』」

人生のほとんどが"ままならない"

 著者の燃え殻さんは、1973年神奈川県生まれ。テレビ美術制作会社企画、小説家、エッセイスト。ウェブサイト「cakes」の連載をまとめた小説『ボクたちはみんな大人になれなかった』(2017年、新潮社)がベストセラーに。以降、多くの媒体で作品を発表している。

 本書は「週刊SPA!」(2018年9月4日号~2020年7月7日号)の連載時の原稿を大幅に加筆修正したもの。漫画家・長尾謙一郎さんが装丁画とイラストレーションを担当。大胆なタッチと鮮やかな色彩で記憶の断片を表現している。本書は、燃え殻さんの簡潔な自己紹介文のような書き出しで始まる。

 「人生のほとんどの時間を"ままならない"で過ごしてきた。学歴は金さえ振り込めば全員合格できる広告の専門学校だし、コンビニのバイトに日本人というアドバンテージを活かせず落ちたことも二度ある。その後は自分以外ほぼブラジル人というエクレア製造工場で働き、今の会社にはバイトで潜り込んで、そのまま正社員になった」

 昼の仕事はテレビの美術制作。通常の仕事をこなし、夜は物を書くという生活を送っている。テレビの裏方の仕事を続けながら週刊連載をやることは「当初の想像以上にキツかった」と書いている。

 今回初めて燃え殻さんを知った評者は、まずペンネームに目が行った。燃え殻さん自身、このペンネームをどう思っているのだろうか? 新聞記者に「それでは燃え殻さんのお考えですと......」と神妙に言われた時、「なんだか申し訳ない気持ちになってしまった」と振り返っている。

 「(その新聞記者は)いい大学に入って難関を乗り越えた先で、こんな思いつきで決めた名前に敬称を付けて呼ばされるとは思ってもいなかっただろう。でも、この名前で呼ばれると、もうひとつの人生を生きているような気がして、内心悪い気はしていない」

「これはいつかネタになる」と念じた

 ネットで燃え殻さんを検索すると、インタビュー記事や書籍紹介が多数出てくる。本書を読み始めて間もなく、燃え殻さんが注目される理由がわかった気がした。とにかく読み入った。ここでは50本から厳選して「何も持たずにすべてを置いて僕たちは死ぬ」を紹介しよう。「逃げても世の中はすべてが平常運転だ」と、「逃げる」ことを肯定している。

 「これは絶望でもあり希望でもあるのだけど、この世界は誰が抜けても大丈夫だ。だから潰れるまで個人が我慢する必要なんてない。心が壊れてしまう前に、人は逃げていい」

 満員電車に乗る日常を繰り返していると、ふと「この日常が永遠に続くような徒労感に襲われる」ことがある。「でも本当はこの日々の果てに......何も持たずにすべてを置いて僕たちは必ず死ぬんだ」――。満員電車の中でそんなことを考えていたら、すべてが馬鹿馬鹿しく思えてきた燃え殻さん。「このまま消えてしまったとしても、ニュース速報が流れるわけでもない」と、ちょっとした現実逃避を試みる。

 ほかにも「死にたいんじゃない。タヒチに行きたいんだ」では、自身がいじめを受けた経験から、不条理なことに出くわすと「これはいつかネタになる」と心の中で念じた、というエピソードも。

 「(「死にたい」という感情は)あまりに無個性なので、『死にたい』を『タヒチ行きたい』に変えてみるとかどうでしょう。バカ言ってんじゃねえと思うかもしれませんが、僕はそうしてます。......長生きって最大の復讐です」

 ペンネームからして奇をてらった感じかと思ったが、まったくそんな印象は受けなかった。ユーモア、自虐、希望がほどよく混ざり、独特の世界観が広がっている。

「書いておいてよかった」

 最後に、本書のもととなる「週刊SPA!」の連載を始めたきっかけにふれておこう。編集のTさんに誘われ、ゴールデン街で飲むことになった。「週刊連載をやってみませんか?」と切り出されたのは、燃え殻さんが酩酊状態だった深夜三時を少し回った頃だったという。「あまり憶えていないが、その時、『はあ』と言ってしまったらしい」。その後、トントン拍子に事は進んだ。

 「連載も二年を迎えると人は去る」――。まず、「わたしがついてますから大丈夫です」と言っていた編集のTさんはあっさり先日去っていった。また、連載に書いたことのある知人が二人亡くなった。彼らとの話を読み返したら「ほぼ忘れてしまった出来事だらけ」だったとして、こう結んでいる。

 「書いておいてよかった。あの夜、編集のTさんに無理やり誘ってもらってよかった。だって、良いことも悪いことも、そのうち僕たちはすべて忘れてしまうのだから」

 同書の発売を記念して制作された動画がYouTubeで公開されている。動画の完成を受けて、燃え殻さんは「忘れっぽい自分が書き記した思い出、匂い、出会った人たちが、この度一冊の単行本になります」とコメントしている。

 「断片的回顧録」――。たしかに、自身の記憶をたどってみても、あの時代のあの場面というようにそこだけ切り取って断片的に残っている。憶えておきたいことは、すべて忘れてしまうことを前提に書きとめておこうと思った。



 


  • 書名 すべて忘れてしまうから
  • 監修・編集・著者名燃え殻 著
  • 出版社名株式会社扶桑社
  • 出版年月日2020年7月24日
  • 定価本体1500円+税
  • 判型・ページ数四六判・221ページ
  • ISBN9784594085605
 

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