コロナ禍が収まっていた時期に、近所の映画館で「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を観た。これがなかなか面白かった。そこで、映画の中の三島の発言などを、もう一度きちんと確認しておこうと思い、本書『美と共同体と東大闘争 三島由紀夫vs東大全共闘』 (角川文庫)を手に取ってみた。
三島と東大全共闘の対論が行われたのは1969年5月13日。同6月には早くも新潮社から本書と同タイトルの単行本が出たそうだ。2000年に文庫化されたのが本書で、さらに20年経って再構成されたドキュメンタリー映画公開という流れだ。
6月下旬。巨大ショッピングセンターの中にあるマルチスクリーンの映画館は、土曜日の早朝にもかかわらず、3分の1ほどが埋まっていた。三密を避けるにはちょうど良い感じだ。年代層はバラバラ。女性の姿もあった。特に右翼でもなく左翼でもなさそうだという、ごく普通の人々が距離を取りながら座っていた。
ありふれた外見からはなぜ彼や彼女たちがこの映画を観ようとしているのか、その内面は全くうかがい知ることができない。三島も東大全共闘も、自分たちの対論が半世紀後にこのような観客によって改めて凝視されることになろうとは、おそらく想像していなかったことだろう。
かなり以前から、この対論の様子がわかる動画はネットにアップされており、評者も見たことがあった。しかし、今回の映画は画像のクオリティもよく、ドキュメンタリー作品として再取材、再構成され緊迫感が持続する。三島没後50年ということもあって企画されたのだろう。映画館で観るにふさわしい出来栄えだった。実際のところ、映画作品を評価するサイトなどでは、高得点が付いているようだ。
対論の背景を知るために、ここでまず簡単に当時の東大の状況を振り返っておこう。参考資料は、BOOKウォッチで紹介済みの『安田講堂 1968‐1969』 (中公新書)と『未完の時代――1960年代の記録』(花伝社)。
紛争の発端になったのは医学部学生の処分問題だ。1968年1月27日、東大医学部医学科の学生大会が行われ、賛成229、反対28、保留28で無期限ストに。7月5日の教養学部全学投票では賛成2632、反対1904、保留333で無期限スト突入。このころ、全学共闘会議が結成される。
東大の10学部のうち、医学部と文学部を除く8学部の自治会は、共産党と密接につながる民青系が握っていた。いわゆる民主穏健路線の執行部だ。それが、次々と全共闘系に奪い取られ全学にバリケードが広がった。
そうした中で、紛争状態の長期化を懸念する一般学生と、民青系が手を組む形で、大学当局との間で収拾工作がひそかに動き出す。当時の佐藤政権にとっても重大問題だった。年が明けて69年1月10日、7学部の収拾派学生代表団と、大学側の加藤執行部の大衆団交が秩父宮ラグビー場で行われ、10項目の確認書が交わされた。しかし、さらに闘争継続を主張する全共闘系は安田講堂に立てこもり、1月18、19日に機動隊と攻防戦、大量逮捕・敗北という流れだ。
つまり三島と全共闘の対論が行われたのは、東大闘争としては一区切りついた時期だった。会場は東大駒場900番教室。まだ駒場キャンパスの中では、全共闘の支配エリアと民青の支配エリアが共存しているような状態だったようだ。全国に目を転じれば、東大や日大闘争に触発される形で、多数の大学にバリケードストが広がり、依然として緊迫した状況が続いていた。泥沼化したベトナム戦争に反対する運動も高揚していた。沖縄はまだ返還されていなかった。
三島を招いたのは、東大全共闘そのものではない。「東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会」(代表・木村修)だ。駒場(1、2年生)にいた全共闘学生の中の一部で組織されたグループということになるだろう。壇上には彼らが陣取り、三島もそこに加わって議論、多数の学生が聴衆として参加し、論戦を見守っていた。
三島は冒頭、なぜ自分が全共闘との討論の場に出てきたかということを語る。そこに三島の思いのエッセンスが凝縮されている。
「私は右だろうが左だろうが暴力に反対したことなんか一度もない」 「東大問題は、全般を見まして、自民党と共産党が非常に接点になる時点を見まして・・・実に恐ろしい世の中だと思った・・・当面の秩序が維持されさえすれば、自民党と共産党がある時、手を握ったっていいのだという。・・・私はそういう点じゃプリミティブな人間だから、筋が立たないところでそういうことをやられると気持が悪い」 「政治的思想においては私と諸君とは正反対だということになっている。・・・ただ私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。・・・とにかく東大という学校全体に私はいつもそういうにおいを嗅ぎつけていたから、全学連の諸君がやったことも、全部は肯定しないけれども・・・知識人の自惚れというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます」
共産党と自民党が手を結んだというのは、上述の、秩父宮ラグビー場での確認書などで当局と収拾派の学生が入試復活の線で折り合いを付けようとした動きを指す。『未完の時代』には共産党が裏工作に関わっていた話が出てくる。全共闘学生にしてみれば、三島の発言は我が意を得たりというところだろう。彼らが、戦後民主主義を主導した有名な知識人教授らをつるし上げたりしていたことに対しても、「絶対に認めます」というわけだから、会場からは拍手が起きる。
三島は、入場料(100円以上のカンパ)が全共闘の資金に回されると聞いて、「できればそのカンパの半分をもらっていって、私がやっている『楯の会』の資金にとっておきたい」と冗談を飛ばして聴衆を笑わせる。会場の様子は、一般的に思われがちな右翼vs左翼という対立の構図ではない。
全共闘側の学生たちの発言は、当時の風潮としてなかなか難解だ。壇上で、仲間同士で言い合いになったりする。しかし、三島はその揚げ足取りをするわけでもなく、丁寧に受け答えをする。「自我と肉体」「他者の存在とは?」「自然対人間」など、政治的というよりは哲学的なテーマが続いていく。学生側が少々ヒートする場面もあり、いわば半世紀前の「白熱教室」だ。
映画を観た誰もが一瞬緊張するのは、三島の次の発言だろう。
「人間はやる時にはやらなきゃならんと思っています。・・・それがいつ来るかまだわからない・・・私は大体に合法的に人間を殺すということがあんまり好きじゃないのです」 「私が行動を起す時は、結局諸君と同じ非合法でやるしかないのだ。非合法で、決闘の思想において人をやれば、それは殺人犯だから、そうなったら自分もおまわりさんにつかまらないうちに自決でも何でもして死にたいと思うのです」
三島の自決は70〈昭和45〉年11月25日。その一年半前には、おおよその心づもりをしていたことがわかる。
討論を締めくくる三島の言葉は、「・・・言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。そして私は諸君の熱情を信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい」。
全共闘側が「それで共闘するんですか? しないんですか?」とたたみかけると、「今のは一つの詭弁的な誘いでありまして、非常に誘惑的になったけれども、私は共闘を拒否いたします」。会場からは笑いと拍手が起こり、幕を閉じた。今から考えれば、三島が信じた「諸君の熱情」とは、「三島自身の熱情」でもあったに違いないと思わせる。
この対論集会を、代表・司会者として仕切った木村修氏にはその後、三島から電話があり、「楯の会」に入らないかと誘われたそうだ。逆の「共闘」の誘いだ。仕切りぶりが気に入られたのだろう。もちろん断り、元東大生としてはやや地味な、地方公務員となり現在は退職。映画によると、個人的に三島研究を続けているとのことだった。
ところで、本にはとくだん出てこないが、映画では強烈な印象を残す主役的登場人物がいた。一歳ぐらいの幼児だ。全共闘側の主要人物で、すでに前衛的な劇団活動をしていた芥正彦氏の子。芥氏に肩車されたり、抱っこされたりして何度も画面に出てくる。
三島vs全共闘だと、二者対立となってしまうが、両者を中和する無垢な緩衝材のようになっていた。三島と全共闘でワーワー言い合っているが、生まれた時はみんなこの赤ん坊のように白紙の状態、という隠喩が込められているようでもあった。初めからそんな演劇的効果を考えていたのだろうか。まるで西洋絵画に登場する「天使像」のように場を和ませる。三島が思う「理想の天皇像=天子」も、どこか、この赤ん坊とつながるような気がした。
今秋にかけ「三島自決50年」がメディアで話題になると思われるが、本書と映画は大いに参考になる。巻末には、三島の「砂漠の住民への論理的弔辞」という「討論を終えて」の一文も掲載されている。
BOOKウォッチでは関連で、『安田講堂 1968‐1969』や『未完の時代』のほか、『東大闘争の語り』(新曜社)、『東大闘争 50年目のメモランダム――安田講堂、裁判、そして丸山眞男まで』(ウェイツ刊)、『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』(ちくま新書)、『東大闘争から五〇年――歴史の証言』(花伝社)、『東大駒場全共闘 エリートたちの回転木馬』(白順社)、『フォトドキュメント東大全共闘1968‐1969』(角川ソフィア文庫)、『かつて10・8羽田闘争があった』(合同フォレスト)など多数紹介している。
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