J-CASTニュースで「元木昌彦の深読み週刊誌」を連載している元木さんの新刊が出た。『野垂れ死に――ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)。
1945年生まれの元木さんは、講談社で週刊現代やフライデー、Web現代の編集長を歴任した大ベテラン。今や週刊誌業界の「ご意見番」とも言える存在だ。本書でも昭和後期から平成にかけての激動の時代を、自身の体験を織り交ぜながらサービス精神たっぷりに振り返っている。
一般に「回想記」には、それなりに興味深い秘話やエピソードが出てくるが、本書の場合は半端ではない。驚くような話が次から次へと登場する。例えば、先ごろ亡くなったジャニー喜多川氏に関する話。
元木さんは週刊現代記者時代の1981年、ジャニー氏の「性癖」を初めて書いて大騒動になったという。ジャニーズ側は、今後講談社にはうちのタレントを一切出さないと宣告してきた。講談社には、ジャニーズ所属のアイドルを使いたい少年少女向けの雑誌が多くある。ジャニーズ側に屈服し、元木さんは突然、「婦人倶楽部」に異動させられた。
まだ30代半ばで血の気が多かった元木さんは、「こんな会社辞めてやる」と腹を決め、当時、親しくしていた劇団四季の浅利慶太さんに頼み込んだ。あなたの秘書にしてくれと。浅利さんは「わかった」。ただし、「婦人倶楽部で半年我慢して、それでも嫌だったら、僕が面倒を見る」という条件を付けた。
この言葉がなければ、元木さんは講談社を辞めていたという。婦人倶楽部は居心地がよく、結局2年間いた。その後、月刊現代に移り、11年後に週刊現代の編集長として古巣に戻った。
ジャニー氏が亡くなった後、朝日新聞は「評伝」で、「1999年には所属タレントへのセクハラを『週刊文春』で報じられた。文春側を名誉棄損で訴えた裁判では、損害賠償として計120万円の支払いを命じる判決が確定したが、セクハラについての記事の重要部分は真実と認定された」と書いた。元木さんは本書で、文春が報じる18年前に、「彼が少年たちに性的虐待をしているのではないかという疑惑を、一般週刊誌で初めて報じたのは、週刊現代にいた私だった」と回想している。
1985年には単身、北朝鮮取材もしている。どういう風の吹き回しか定かではないが、北朝鮮側から招待された。条件は「一か月一人で来ること」。モスクワ経由で北朝鮮に入る。招待所に通訳とクルマと運転手、賄の女性がついた。行く前に、親しくしていた韓国政府の要人から、夜、壁に向かって「女が欲しい」というと、次の夜、女性が部屋に来ると言われていた。何度かやってみたが、女は現れなかったという。
フライデーは、元木さんが編集長として就任する前の1986年、ビートたけしが彼の軍団を率いて講談社に殴り込んだ事件が起きていた。いわゆる「フライデー襲撃事件」だ。写真誌批判が広がり、部数は三分の一に落ち込んだ。この事件の前から、社内でもフライデー批判があり、元木さんはその急先鋒だったというが、編集長のお鉢が回ってきた。
編集長時代は新たに、「幸福の科学事件」や、「山口組鉄砲玉襲撃事件」も起きた。しかし、有名女優のヌード路線で盛り返す。続く週刊現代では「ヘア・ヌード」という言葉を生み出し、同業他誌も後を追う。取締当局の動きを見極めながら、「性表現の自由」を、一歩も二歩も前に進めたことを編集者としての誇りにしているという。
無鉄砲で大胆そうに見える元木さんだが、週刊現代の編集長に就任した時は、「うつ」になったそうだ。朝、出かける前に高倉健の「昭和残侠伝」のDVDを観て、自分を鼓舞して出社するが、会社に近づくと、大量の汗が体中から吹き出す。不安で胸が締め付けられそうになる。医師の診断を受け、抗不安薬の「デパス」を飲んだ。有名週刊誌の編集長には、それだけの重圧がかかるということだろう。
本書では元木さんの生い立ちも記されている。小学校に入学した時の健康診断で「肺浸潤」が指摘され、自宅隔離になって一年間、寝たり起きたりの生活。高校3年の時には「結核」を告げられる。同年齢の吉永小百合が主演した「愛と死をみつめて」は10回以上観た。若くして死んでいく主人公に自分を重ねたという。
早稲田大学に入ってからは、「刹那的に生きる」と決める。当時の早稲田闘争など思想的なことにはまったく興味なし。「酒と女」が関心事だった。バーテンダーの学校に通って腕を磨き、スナックなどでバイト。一時は8歳年上の銀座の超有名クラブホステスと親密になり、この女性と場末のバーでもやるか、と思っていた時期もあったそうだ。
父親が読売新聞に勤めていたので、結局マスコミを受けることに。読売新聞の筆記は受かっていたが、健康診断で「慢性腎炎」が指摘され、不合格。そこで講談社の試験では一計を案じた。弟におしっこをしてもらい、それを瓶に入れて持参。採尿時は大便用のトイレに入って、用意した弟の尿を紙コップに流し込み、無事合格したという。試験から半世紀以上過ぎたが、実際のところ、腎臓にはその後、何の異常もないという。
早稲田の学生でありながら、銀座の超有名クラブに出入りしていたような経験は、その後の編集者人生で大いに役立ったようだ。
フライデーや週刊現代の編集長時代は、硬派の記事にも力を入れた。その一つが、小沢一郎氏追及の連続キャンペーンだ。フリーの松田賢弥氏が担当した。当時の政界の様々な動きの真ん中には常に小沢氏がいた。
講談社は小沢氏のベストセラー『日本改造計画』の出版元だった。小沢氏は社の上層部に「週刊現代、何とかならんかね」とこぼし、その意を受けた社内の人物が元木さんのところに来たこともあったという。もちろん、妥協しなかった。
元木さんはその後、週刊現代を離れ、講談社を退社。「戦友」だった松田氏も他のメディアで書くようになり、何冊か単行本も出す。2012年6月21日号の週刊文春では、「小沢一郎 妻からの『離縁状』全文公開」の署名記事を掲載した。記事が出る前に松田氏から連絡があり、発売直後に二人で会って祝杯をあげたという。
しかし、その松田氏はのちに脳梗塞で倒れた。手術後の経過も芳しくない。リハビリ病院に入院していた。別れた妻子は一度も顔を見せず、田舎にいる年老いた母親や兄も、引き取れないと言っている。元木さんは何度か見舞いに行くと、松田氏はもつれる舌で、元木さんに「ありがとう」と言った。もう一度取材したい、ライターとして書きたいものがある、という。生活保護を受けており、病院の支払いをすれば、手元にはほとんど残らないという。
「可哀そうだとは思うが、フリーのライターの末路はこんなもんだと思う。何人ものライターたちのやりきれない死様を見てきた。何もしてやれない自分が情けなかった」 「松田の肩を抱き、『また一緒に仕事をしような』そういって別れた。その後の消息を、残念ながら知らない」
ほかにも何人もの「戦友」たちの「死様」が出てくる。本書の「野垂れ死に」というタイトルは、彼らの姿に、元木さん自身を投影させたものに違いない。「万に一人でも、こんなバカな人生を送った人間がいたのか、そう笑いとばしてくれる人がいれば、冥利に尽きるというものである」と締めくくっている。
平成への挽歌というのが本書の主旋律だが、全編に「昭和」が詰まっている。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?