あなたの好きな漱石の作品は何ですか。以前、こんな新聞の読者アンケートを読んだことがある。べストスリーは『坊っちゃん』『こころ』『吾輩は猫である』だった記憶がある。もし司馬遼太郎が問われれば、断然、『三四郎』を挙げただろう。主題の選択、人物の描写、構成の点で、小説を書く玄人としての能力がもっとも表れているのが『三四郎』だ、と書いていたからだ。
確かに、九州から上京する青年が、東海道線上り列車で出会う乗客とのやりとりから始まる出だしは、とくにすばらしい。青年の期待と不安が、東京に近づくにつれ、汽車の走行音とともにたかまっていく。『こころ』でも実は鉄道が重要な役割をはたす。「下」の『先生と遺書』は、全文が「先生」の封書(遺書)を「私」が「ごうごう鳴る三等列車の中」で読むしかけだ。漱石作品は、汽車や鉄道が大事なところで登場するのだ。
本書『漱石と鉄道』(朝日新聞出版)は、漱石作品に登場する鉄道風景を路線ごとに訪ねたもの。著者の牧村健一郎さんは1951年生まれ。元朝日新聞記者。『新聞記者 夏目漱石』(平凡社新書)、『旅する漱石先生』(小学館)、『評伝 獅子文六――二つの昭和』(ちくま文庫)、『日中をひらいた男 高碕達之助』(朝日選書)などの著書がある。
実際、漱石自身、明治人としては異例なほど、国内外を旅した。ほとんどが鉄道だ。本書は、漱石の鉄道旅を、日記や作品をもとに当時の時刻表(復刻版)に丹念に当たりながら再現し、そこから近代化の象徴である鉄道の明と暗、さらに近代化そのものへの漱石の視線をたどる。漱石ファンだけでなく、鉄道ファンも楽しめるのがミソだ。
漱石と伊藤博文の東海道線上でのすれ違いが興味深い。漱石は明治42年9月から10月にかけ、旧満州を旅し、帰国時の10月14日、広島から大阪へ夜行に乗る。大阪着は15日朝7時22分。一方、明治の元勲伊藤は14日夕方5時23分、別荘のある大磯から急行に乗車、下関を目指す。日露戦争後の満州の勢力圏調整のため、ロシア蔵相と会談すべく、ハルビンに向かうのだ。伊藤の急行は15日朝5時20分、大阪に到着し、さらに西進する。
著者はここでダイヤグラムを作成する。縦軸に駅名、横軸に時刻を入れ、そこに列車の走る軌跡を斜線で記入してダイヤグラムを作れば、列車の位置関係は一目瞭然、いつ、どこで列車がすれ違ったのかがわかる。結果、15日朝7時ころ、阪神間でふたりの乗る列車がすれ違ったことが明らかになる。
伊藤は下関から大連に連絡船で渡り、旅順戦跡などを視察し、さらに満鉄で北上し、26日朝ハルビン駅に到着する。直後にプラットホームで朝鮮独立派に暗殺されたことはよく知られる。漱石のハルビン訪問のわずかひと月後のことだ。漱石は『門』で、主人公夫婦にこの暗殺事件の驚きを語らせている。
宮沢賢治が乗り、作品にもしばしば登場する岩手軽便鉄道は、漱石が満州旅行で乗った安奉(あんぽう)線のお下がりだった。一般の鉄道よりレール幅が狭いなど規格が劣る満州の軽便鉄道は、日露戦争後国内に移送され、当時建設ラッシュだった国内の軽便鉄道の路線に再利用された。賢治の作品で知られる、あの煙突のひょろ長い小型の機関車も、そのひとつだった。近代日本の二大人気作家、漱石と賢治は「鉄道レールでつながっていたといえる、かな」と著者は遠慮がちに記している。
漱石の死因は持病の胃潰瘍の悪化だった。執筆のストレス、脂肪分の多い食事、消化の悪い食べ物の摂取などが胃潰瘍を憎悪させたとされるが、著者は度重なる汽車旅の疲労、列車の激しい振動も要因の一つとみる。近代化の象徴である鉄道を存分に利用して作品世界を広げた一方で、鉄道は漱石の肉体を痛め、苦しめたのではないかと推察する。
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