もしも彼が生きていて、この世界を見たら、なんと思うだろうか。
雑誌「ニューヨーカー」の編集者で、小説、漫画、児童書の分野でも活躍したジェームズ・サーバーさん(1894―1961)。1939年、第二次世界大戦開戦時にサーバーさんが描いた絵本『世界で最後の花 絵のついた寓話』(原題:The Last Flower A Parable in Pictures)は、世界で読み継がれている名著だ。
日本では1983年に『そして、一輪の花のほかは...』として刊行されたが、その後絶版に。原書の刊行から84年を経て、このたび村上春樹さんの新訳でポプラ社より復刊された。
■あらすじ
第十二次世界大戦が起きた世界。文明は破壊され、町も都市も村も......なにもかもが消えてしまった。生き残った人間たちはみじめな存在になり、ただそのへんにぼんやり座りこんでいた。ある日、ひとりの若い娘が、たまたま世界に残った最後の花を目にした。そしてひとりの若い男と、その一輪の花を育てはじめる――。
『世界で最後の花 絵のついた寓話』の中を、少しのぞいてみよう。
みなさんもごぞんじのように、
第十二次世界大戦があり
町も、都市も、村も、
地上からそっくり消えてしまいました。
森も林も全滅しました。
本も、絵画も、音楽も、地上からなくなりました。
人間たちはなにをするでもなく、
ただそのへんにぼんやり座りこんでいました。
生きのこった数人の将軍たちも、
最後の戦争がなにのためのものだったのか、
もう思い出せません。
ある日、それまで花をいちども見たことのなかった若い娘が、
たまたま世界に残った最後の花を目にしました。
1939年9月、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。同年11月に本作の原書は刊行された。その当時に村上春樹さんは思いを馳せる。
「戦争を予期させるきな臭い空気の中で、世界の平和を切に願って描かれたであろうこの絵本が書店の棚に並んだときには、世界は既に激しい戦火に巻き込まれていたのです。そのときサーバーが感じていたであろう虚しさが想像できます。」
(「訳者あとがき」より)
はじめに、サーバーさんの娘に宛てた一文がある。
ローズマリーに
君の住む世界が、わたしの住む世界より
もっと善き場所になっていることをせつに願って
サーバーさんは幼いころに目に傷を負い、ほとんど全盲の状態だったという。本作の絵に色はなく、ざっくりとした線で描かれている。よく見えていなかったということもあるだろう。ただ、戦争がはじまろうとしているとき、いまこれを伝えなければと思ったとき、真に大切なものだけが絵と文になって表れたのだろうと感じた。
2022年2月24日、ロシアによるウクライナ軍事侵攻がはじまった。その少し前、両国間の緊張が高まる中、北京オリンピックに出場したウクライナの選手が、「NO WAR IN UKRAINE」というメッセージを掲げている映像を見た。
歴史は繰り返す。まさか21世紀に起きるはずがないと思っていたことが、現実に起きてしまっている。
軍事侵攻開始から数日、1か月、数か月が経ったと、はじめのうちはニュースでよく耳にした。いつ終わるだろうかという時間の感覚が、自分の中にもあった。しかし、長引くにつれてその感覚は鈍っていき、延々と続く戦争に心を痛めながらも、どこか距離を置いて眺めていた。
このタイミングで本作と出合い、いまも戦争は続いていて、無関心になってはいけないと、心に刻んだ。本作を読んで平和を願った世界中の人たちの思いが、ここにしみこんでいるように感じた。いまから数十年後、後世の人たちが同じ思いを繰り返していませんように、と願うばかりだ。
「世界では今でも、この現在も、残酷な血なまぐさい戦争が続いています。いっこうに収まる気配はありません。(中略)そんな中で『世界で最後の花』を守るために、多くの人が力を合わせています。この本も、そんなひとつの力になるといいのですが。」
(「訳者あとがき」より)
■ジェームズ・サーバー(James Thurber)さんプロフィール
1894年、オハイオ州コロンバスで生まれる。国務省の暗号部員を務めた後、雑誌「ニューヨーカー」の編集者・執筆者として活躍。イラストレーター、漫画家としても活動し、当時、最も人気のあるユーモリストの一人だった。代表作『ウォルター・ミティの秘密の生活』は、1947年に『虹を掴む男』として、2013年にはベン・スティラー主演の『LIFE!』として、2度にわたって映画化された。『世界で最後の花』(原題『The Last Flower』)は多くの国で翻訳され、フランス語版の翻訳はノーベル文学賞受賞者のアルベール・カミュが務めた。1961年、永眠。
■村上春樹さんプロフィール
むらかみ・はるき/1949年、京都市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1979年『風の歌を聴け』(講談社)でデビュー。主な長編小説に、『羊をめぐる冒険』『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』(以上、講談社)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』(以上、新潮社)、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)などがある。主な訳書に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)、『グレート・ギャツビー』(中央公論新社)、『ティファニーで朝食を』(新潮社)、『おおきな木』『はぐれくん、おおきなマルにであう』『ジュマンジ』(以上、あすなろ書房)など多数。翻訳についての著書に、『翻訳夜話』『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(以上、文藝春秋)、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』(中央公論新社)、『本当の翻訳の話をしよう』(スイッチ・パブリッシング)がある。海外での文学賞受賞も多く、2006年フランツ・カフカ賞、フランク・オコナー国際短編賞、2009年エルサレム賞、スペイン芸術文学勲章、2011年カタルーニャ国際賞、2014年ヴェルト文学賞、2016年ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞、2022年チノ・デルドゥカ世界文学賞(フランス)を受賞。
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