「あなたには、やりなおしたい過去がありますか?」
全英1位。世界43カ国で刊行。BTSメンバーも愛読する世界的ベストセラー小説『ミッドナイト・ライブラリー』(マット・ヘイグ 著)。本作の日本語翻訳版(浅倉 卓弥 訳)が、ハーパーコリンズ・ジャパンより本日刊行された。
ぜひ1人でも多くの人に読んでほしい! そんな思いを込めて、BOOKウォッチでは本作の【試し読み】を連載(全6回)でお届けしてきたが、いよいよ最終回。
本作の書評「BTSも愛読する世界的ベストセラー。『もしもあの時......』と後悔している人へ。」はこちら。
■ここまでのあらすじ
ノーラはその日人生のどん底にいた。飼っていた猫を亡くし、仕事をクビになり、いくら悲しくても話を聞いてくれる家族も友人もいない。頭をめぐるのは後悔ばかり。
「私がもっといい飼い主だったら」「両親にも亡くなる前にもっと親孝行ができていたら」「恋人と別れなければよかった」「故郷に戻らなければよかった」
生きている意味などもうないと、ノーラは衝動的に自らの命を絶とうとする。
だが目覚めたとき、目の前には不思議な図書館が佇んでいた――。
「何か一つ"もし違う選択をしていたら"と思う内容をお選びなさい」。ノーラは、元彼とパブをやっている人生が綴られた1冊を選んだ。すると、本も図書館も、何もかもが周囲から消え去った。以下、その続きの場面から、【試し読み】をお楽しみいただきたい。
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三つの蹄鉄(ひづめ)亭
ノーラは冷たく澄んだ空気の中に立っていた。どうやらベッドフォードではない。だって雨が降っていない。〝いったいどこ?〟と、思わず小さな声がもれた。
目の前では車道が緩やかなカーブを描いていた。向こう側には石造りのテラスハウスが並んでいる。古風な家々は、今はどれもすっかり明かりを消し、寝静まっていた。村の一番端に立ち並び、田園風景に溶け込む間際で懸命に踏みとどまっているかのようだ。
澄みわたった夜空にはところ狭しと星々が瞬き、真ん中に薄い三日月が浮かんでいた。畑の匂いがする。フクロウの啼(な)き声が遠くから聞こえてきてまた消えてしまうと、辺りは再びしんとした静寂に包まれた。今にも指で触れられそうな静けさだった。
何よこれ。
さっきまでノーラはベッドフォードにいた。次があの奇妙な図書館で、そして今、こんな場所にいる。小綺麗な田舎の路上だ。ほとんど動いてもいないのに。
道のこちら側では、建物の一階の窓から金色の明かりがこぼれ出していた。顔を上げると、看板が静かな風に揺れていた。なかなか気の利いたデザインだ。中央に蹄の絵柄が描かれ、その下に店名らしきものが、丁寧なイタリックで綴られている。
<三つの蹄鉄(ひづめ)亭>
歩道にはメニューボードも出ていた。見ればすぐ、それがノーラ自身の、それも精一杯注意深く書いている時の字だとわかった。
<三つの蹄鉄亭>
火曜日はクイズの夜 八時半スタート
「真の知は、己の無知を自覚して初めて得られる」
──ソクラテス(うちのクイズに負けた後に言ったんだって!!!!)
どうやらこの人生の自分は、びっくりマークを四つも並べて使うらしい。こういうのはたぶん、幸せで、あまり堅苦しくない人間のすることだろう。いい兆候だ。
見下ろして着ているものを確かめた。袖をまくったデニムのシャツに下はジーンズ、靴はウェッジソールのパンプスだった。どれも普段のノーラが着もしないものだ。寒さに鳥肌が立ってきて、この自分はきっと、長く表にいるつもりで出てきたのではないのだな、と想像した。左の薬指には指輪が二つ嵌(は)められていた。一つは見覚えのあるサファイア入りの婚約指輪だ。一年以上も前に震えて泣きながら外したものだ。それが今、素っ気ない銀の結婚指輪と一緒になってそこにあった。
カチリと小さな音がした。見てみると、こっちの自分も腕時計はつけていた。だがデジタルではなく、見るからに精巧な作りのアナログだった。文字盤はローマ数字だ。針は真夜中から一分過ぎになろうとしているところだった。
いったいどうなっているのだろう。
手の感触さえ普段とは違った。幾分滑らかなのだ。ここでの彼女はハンドクリームを使っているらしく、爪も丁寧に磨かれて、窓からもれてきた明かりを反射していた。左手にようやく見慣れたホクロを見つけた時にはなぜだかほっとした。
砂利を踏む足音がした。誰かが店から出てきたようだ。車道にはみ出しながら、こちらに向かって歩いてくる。一本きりの街灯と店の明かりとから、男性だとわかった。頬には少し赤味が差している。ディケンズ風の顎髭を生やし、ワックスドジャケットを羽織っていて、シルエットがジョッキみたいだ。酔いを自覚しているのか、一歩一歩が妙に慎重だった。
「やあノーラ、金曜にまた来るよ。フォーク歌手だかが出るんだろう? ダンが、なかなかのやつだと言っていたぞ」
この人生の自分は、相手の名前もちゃんと知っているに違いなかった。
「ええそう、その通りよ。金曜なの。お楽しみに」
喉から出てきたのは、どうやら自分の声だった。そのままノーラは、千鳥足の相手が道路を渡っていくのを見守った。男は車など通りもしないというのに幾度も左右を確かめてから、やがて建物の間を縫った小路の奥へと姿を消した。
これは現実だ。ここはダンと一緒にパブをやっている人生なのだ。私たちは夢を実現させ、今自分はその人生の中にいる。
「バカげてる。ありえない」
ノーラがそうつぶやいた時、また店から誰かが出てきた。今度は女二人に男一人の三人組だった。傍らを通り過ぎながら、それぞれがノーラに微笑んだ。
「次は勝つからね」
女の片方が言い、ええ、とノーラも応え、軽く手を上げながら一行を見送った。
窓まで行き、店内を覗き込んでみた。客の姿はもうなかったが、照明はついたままだった。おそらく今の三人が最後だったのだろう。暖かみのある店内はなるほど居心地が良さそうで、かつ個性的だった。小さなテーブルに角材の梁(はり)、壁には荷馬車の車輪が飾られている。床には赤い絨毯(じゅうたん)が敷き詰められ、やはり木材のカウンターに並んだビア樽(だる)は威風堂々としていた。
窓から一歩下がってみて、建物の先に突っ立った標識に気がついた。舗道が芝草に変わる、その境目の場所だ。小走りで近づき、表示を読んだ。
リトルワースへようこそ 我々は慎重なドライバーの皆様を歓迎します
中央には小さな紋章が描かれていて、それを囲んで<オックスフォードシャー自治体>の文字が輪を作っていた。
「私たちやったんだ。本当に夢を叶えたんだ」
空に向けノーラは囁いた。ダンが自分の夢のことを初めて口に出したのは、パリでセーヌ河沿いの道を歩いていた時だった。二人して、サンミッシェル通りで買い求めたマカロンを食べていた。でも、夢の舞台はパリではなく、英国の田園地帯だった。ダンはそこで一緒に暮らそうと言った。オックスフォードシャーの田舎のパブで。
しかしノーラの母親の癌(がん)は、再発したかと思うとものすごい勢いでリンパ節を冒し、全身に広がり巣くってしまった。夢は延期を余儀なくされ、ノーラはダンと一緒にロンドンを引き上げ、一旦ベッドフォードに戻った。ノーラが婚約したことも知っていた母親は〝せめて式までは生きたい〟と望んだのだが、それから四ヶ月であっけなく世を去ってしまった。
ああ、これだ。これこそ欲しかった人生だ。ビギナーズラックとでも呼ぶのがいいのか、とにかく最初の一手で引き当てたのだ。いや、元々の人生を数えれば二回目か。
半信半疑のままノーラはぎこちなく微笑んだ。
砂利を踏みながら小路を引き返し、最初のワックスドジャケットを着た、髭の男が出てきた戸口へと向かった。そして、一つ深く息を吸い込んでからドアをくぐった。
屋内は暖かく静かだった。ノーラは玄関とも廊下ともつかない場所にいた。足元は淡い煉瓦色のタイル貼りだ。腰辺りまでの羽目板の上の壁紙には、一面に鈴懸(プラタナス)の葉が描かれていた。
短い廊下を抜けると、その先がメインのパブだった。窓から覗き込めた場所だ。そこへ、どこからともなく猫が現れたものだから、ノーラは驚いて軽く跳び上がった。
チョコレート色の、スリムで見栄えのいいバーミーズが咽喉(のど)を鳴らしながら寄ってきた。屈み込んで体を撫(な)でてやると、首輪からぶら下がった丸い名札に〝ヴォルテール〟と彫ってあるのが見えた。同じ名前の、違う猫だ。ノーラの親友だった茶トラとはあまり似ていない。ひょっとして、やっぱり保護猫なのだろうか。猫はゴロゴロいい続けていた。
「こんにちは、ヴォルテール二号さん。あなた幸せそうね。この世界ではみんなそうなの?」
猫はその通りだとでも言いたげにまた咽喉を鳴らし、今度はノーラの足に頭をこすりつけてきた。その子を抱き上げ、ノーラはバーへと入っていった。
カウンターには地ビールのサーバーが並んでいた。スタウトにシダーにペールエール、それからIPA。名前も様々だ。<牧師様のお気に入り>に<迷子>、<ミス・マープル><寝ぼけたレモン><夢破れて>等々。隣にはブリキの募金箱も見つかった。
カウンターの奥の方からいきなり、ラグビーシャツを着た二十代の青年が姿を見せた。だが相手はノーラに注意を払うこともなく、淡々と、まだ残っていたグラスを食洗機へと入れる作業を続けた。やがていよいよ機械のスイッチを入れた青年は、掛けてあったコートをつかんでそれを羽織ると、ポケットから車のキーらしき鍵束を取り出した。
「じゃあね、ノーラ。椅子は上げたし、床も掃除した。食洗機は今動かしたよ」
「ええ、どうも」
「また木曜に」
ええまた、と応じながら、今にも正体がばれそうなスパイになった気持ちでいた。
青年が行ってしまうと、入れ違いに今度は、地下のどこかから階段を昇ってくるような足音が聞こえてきた。そのまま今ノーラが通ってきたあのタイルの上を歩いてくる。店の裏から入ってきたらしい。そしていよいよ、足音の主が姿を見せた。
ダンの様子はすっかり変わっていた。髭はなく、目の周りの皺がずいぶん増えて、隈(くま)もできている。手にはほぼ空になった黒ビールのジョッキがあった。
「ダン──」
まずは相手が何者かを定める必要があるみたいに、ノーラはダンの名前を呼んだ。たとえるなら、道端に思いがけずウサギを見つけた時みたいな感じだ。
「あのねダン、あなた本当によくやったわ。私たちやりとげたのよ」
こちらを向いたダンは、心ここにあらずといった様子だった。
「冷蔵設備の電源を切ってきただけだ。あのラインは掃除しないとならないな。もう二週間もほっぽってあるんだから」
何を言っているのかはさっぱりだった。ノーラは猫を一撫でした。
「ええそうね。その通り。当然だわ。ラインよね」
ノーラの夫が、この人生では間違いなくそうであるはずの相手が、周囲を見回した。今や無人となった店内では、逆さまになった椅子がテーブルの上にのっていた。ダンのくたびれたTシャツの胸の部分では『ジョーズ』のイラストとロゴが消えかけていた。
「ブレイクとソフィーはもう帰ったのか?」
すぐには答えられなかった。たぶん従業員の名前だろう。おそらく、さっきのラグビーシャツの青年がブレイクだ。
「ええ、たぶんもう帰ったと思う。二人とも、そのあたり抜かりはないもの」
奇妙極まりないこの状況下で、それでもノーラは精一杯自然に聞こえるようそう言った。
「素晴らしいこった」
そしてノーラは、ダンに今着ているそのジョーズのTシャツを自分が買ってあげたことを思い出した。ダンの二十六歳の誕生日だ。もう十年も前になる。
「だけど、今夜の答えの方はひどいもんだったな。ほら、ピートとジョリーがいたチームなんて、システィーナ礼拝堂の天井画はマラドーナが描いたと思っていたぞ」
頷きつつ、ノーラはヴォルト二号の体を撫でた。ピートとジョリーが誰だかも、当然わかっている振りをした。
「でも、確かに今夜のは難しかったかもな。次は別のサイトから探してくるよ。カラなんとか山脈で一番高い山の名前なんて、答えられるやつはいないからな」
「カラコルムのこと? だったら答えはK2だけど」
「ああ、まあ確かにお前は知ってるだろうよ」
応じたダンの口調は度を超して無愛想だった。そもそも酔いすぎだ。
「なんたって得意分野だからな。普通の連中がロックミュージックに夢中になる時期、お前は本物の岩(ロツク)とか、そういうのに夢中だったんだから」
「ちょっと。私、バンドにいたことだってあるんだけど」
けれど言い返してすぐ、ノーラがバンドに加わっていることについて、ダンが決して快く思っていなかったのを思い出した。
ダンは笑っていた。でも、好きになれるところの全然見つけられない笑い方だった。そういえばつき合っていた当時もダンは、自分で面白いと思ってしまうと、相手に通じるかどうかはどうでもよくなってしまうところがあった。ノーラの前では特にそうだった。
恋人でいるうちは、ダンのそうした部分については深く考えないようにしていた。ほかにいいところもいっぱいあったからだ。ダンは体を壊した母にとても優しくしてくれたし、たとえどんな相手とのどんな会話でも、楽しそうに盛り上げることができた。未来の夢にあふれていたし、魅力的で、一緒にいることが楽だった。芸術に対する情熱は本物で、ホームレスを見かければ立ち止まって話しかけていた。世の中の動きにもちゃんと目を配っていた。
人というのは街に似ている。あまり好ましくない部分があるからといって、すべてが否定されるわけでは決してない。怪しげな裏通りとか寂れた郊外とか、そうした多少の傷があったとしても、よい面がそれを埋め合わせてくれる。
ダンはどうにも押しつけがましい音声番組(ポッドキャスト)の熱心なファンで、ノーラもそれを聞くべきだと考えていた。時に苛(いら)つく笑い方をしたし、うがいの音はうるさすぎた。掛け布団はいつも独り占めしたし、映画や音楽の話となると必ず尊大になった。
でも、耐えられないほどおかしなところはなかった。確かにバンド活動については応援してくれたことは一度もない。むしろ、バンドがレコード会社と契約するなんてことになったら、絶対にノーラの精神状態に悪影響が出てくるだろうと言った。お前の兄貴は自分勝手すぎるとも口にした。それでも当時のノーラは、それもこれも自分を大事にしてくれるがゆえのことなのだ、と考えていた。
ダンは私を心配してくれている。誰か気にかけてくれる相手がいるというのは、それだけでとても素敵なことだ。しかもダンは、名声といった浅はかな物事には揺れもしない。こういう相手にこそ、手を取って導いてもらうべきだろう。
そんなふうに思っていたからオクソタワーの最上階のバーでダンから〝結婚しよう〟と言われた時も、迷わずにイエスと返事した。頷くことが正しい選択だと思っていた。
店のフロアへと出ていったダンは、ジョッキを客席のテーブルに置き、携帯電話を取り出した。次に出題するクイズを探し始めたようだ。ノーラは、この人は今夜いったいどのくらい飲んだのだろうか、と訝った。ひょっとしてパブをやりたかった本当の目的は、際限なくアルコールが手に入るからだったのか。
「二十個の辺を持つ図形をなんというか?」
「わからないわ」
さっきみたいな反応が嫌で、嘘をついた。ダンが電話をポケットにしまった。
「まあ、確かに俺らはよくやったよ。今夜はみんなしこたま飲んでくれたしな。火曜にしちゃ悪くない売り上げだ。ここしばらく順調だから、明日、銀行に話せる材料もある。ローンの期限の延長も認めてもらえるかもしれない」
そこでダンはジョッキに残ったビールを見つめ、未練がましく少しだけ回してから、元の場所へと置きなおした。
「それにしても、ランチのメニューは変えるようAJに言わないとな。この辺じゃ誰も、ビーツの砂糖煮に空豆のサラダなんて昼飯は食いたがらないんだ。高級店じゃないんだからな。あと、好評なのはわかってるが、お前が選んできたワインは正直割に合わないぞ。特にカリフォルニア産のは」
「わかったわ」
そこでダンは振り向いて後ろを見やった。
「そういや、ボードはどこだ?」
「えっと、なんですって?」
「黒板だよ。しまいに行ったんだと思ってたぞ」
どうやらさっきノーラが表にいたのはそういう理由だったようだ。
「違うの、これからしまうところなの」
「出ていくのを見かけたと思ったんだがな」
笑ってなんとか取り繕おうとした。
「ええ。表には出た。その、ええと、猫が心配になったから。私たちの猫。ヴォルテール。ヴォルトよ。姿が見えなくなったものだから、捜しに出たの。そしたら、ちゃんといた」
いつのまにかカウンターの奥へと回ったダンは、また自分用にスコッチを注いでいた。ノーラがそれをとがめようとしているとでも考えたのか、弁解を始めた。
「まだ三杯目だ。いや、四杯目かな。とにかく今夜はクイズの夜だったんだ。司会進行に俺がそこそこ緊張することはわかってるだろう。こいつのおかげで面白おかしくやれるんだ。今日だって大ウケだったぞ。見てただろう?」
「ええそうね。面白かったわ。最高だった」
そこでダンは不意に真顔になった。
「エリンと喋ってたな? あいつなんて言ってた?」
どう答えるのがいいのかもわからなかった。
「大したことは何も。いつもの通りよ」
「いつも通り? エリンと話すのは初めてなんじゃないのか?」
「だから、みんなが普段するような話って意味。エリンがいつも言うことじゃなくて」
「ウィルはどうだった?」
「元気そうだったわ。よろしくって言ってた」
無難に聞こえるよう捻り出したこの答えに、ダンは驚いたように目を見開いた。
「嘘だろう?」
もうお手上げだ。ひょっとしてウィルは赤ん坊だったりするのだろうか。あるいは昏睡状態に陥っているとか。可能性ならいくらでもある。
「ごめんなさい。彼はよろしくなんて言わなかったわ。何も考えずに答えちゃった。とにかく私、黒板をしまってくる」
ノーラは猫を床に下ろし、裏口に向かいかけた。その時、入ってきた際には見過ごしていたあるものに気がついた。新聞記事の切り抜きが額縁に入れて飾られていたのだ。『オックスフォードタイムズ』だった。
ノーラとダンが<三つの蹄鉄亭>の前で並んだ写真が載っていた。ダンは見たことのないスーツ姿でノーラの体に腕を回し、ノーラもまた、やはり着た覚えもない小洒落たドレスに身を包んでいた。実人生では、ドレスに袖を通したことなど一度もないのに。
『夢を叶えたパブ店主』
記事によれば二人は、ちょうど売りに出ていた店舗を安い値段で手に入れて、遺産とおそらくはダンの貯金、それに加えて銀行からの融資を受け、内装を改修したのだそうだ。サクセスストーリーとして扱われてはいたが、日付は二年も前だった。
表に足を踏み出しながらノーラは、はたして火曜の夜の、それも、真夜中を過ぎたばかりのほんの数分で、いったいその人生とやらの何がわかるだろうか、と訝った。それともそれで十分なのだろうか。
風が強くなっていた。突風が、静まり返った田舎の道にぽつねんと立っていたボードめがけて襲いかかり、ゴトゴトいわせながら舗道の先へ動かしていく。今にもひっくり返りそうだ。伸ばした手がボードに届くかどうかというタイミングで、今度はポケットで携帯が震えた。そんなものがそこにあることも今知った。引っ張り出すとイジーからメッセージがきていた。携帯の待ち受けは、どこか南国で写したダンと自分の写真だ。
イジーが送ってきたのは、海面から高々と跳び上がった鯨の写真だった。飛沫(しぶき)がまるでシャンパンの栓でも抜いたみたいに一面に飛び散っている。見ただけで笑みがこぼれた。
これ昨日ボートから撮ったうちの一枚なの。
またメッセージがきた。お母さんザトウクジラ。
今度の写真は、波間に顔を出した二頭を写した一枚だった。子供と一緒。
文末には、鯨と波の絵文字が盛大に使われていた。
胸が温かくなった。確かに思わず見惚れてしまう写真だったが、そのせいだけではない。何よりも、イジーから連絡がきたそのこと自体が嬉しかった。
ノーラがダンとの結婚を取りやめた時イジーは〝だったら一緒にオーストラリアに行こう〟と言い張った。二人で詳細な計画も立てた。バイロンベイの近くに住み、湾にある、ホエールウォッチングのツアーを催行している会社のどこかで働こうというものだ。
計画を進めている間は、二人してザトウクジラの写真を集めまくった。でも結局ノーラの方の決意が揺らぎ、断念してしまった。水泳やバンドや、結婚からも逃げ出してしまったのと同じだ。けれどこの時は理由さえなかった。
確かに<弦理論(ストリングセオリー)>で働き始めてはいた。両親の墓の面倒をみなければならなかったことも本当だ。でも、ベッドフォードにとどまるのが最悪の選択肢だということも、自分でわかっていたはずだ。それでもそっちを選んでしまった。
きっとホームシックになるだろう、と怖(お)じ気(け)づいたせいもある。でもその不安には〝自分には幸せになる資格などない〟という抑圧めいた感覚が混ざり込んでいた。
私はダンを傷つけた。雨ばかりの故郷で鬱々とした日々を送ることこそ、その罰だ。誰かが終始耳元でそう囁いているかのようだった。そのうえ当時のノーラは、そういう声を振り払えるだけのまともな考え方すらできなかった。何かをするという気力をそもそも欠いていた。そして結局、親友の代わりに猫にそばにいてもらうことにした。
イジーとは決して仲違いしたわけではない。けれどイジーが一人でオーストラリアに行ってしまうと、二人の間にあったはずのものも少しずつ薄れていった。今はせいぜい、SNS上でのまばらな〝いいね〟のやりとりと、絵文字で飾り立てた誕生日のメッセージを送り合う程度の間柄になっていた。
携帯に残されていた、この人生での自分とイジーとの間に交わされたメールをいくつか読んでもみた。そして、一万キロ以上という距離を隔てているのは同じだとしても、ここでの自分たちの関係の方がまだ少しはましらしい、と考えた。
今度こそボードを引き上げてパブに戻ると、ダンの姿はもうなかった。裏口に鍵をかけ、通路の辺りでしばらく待った。そうしながら階段の場所を探しはしたが、はたして自分が、あの千鳥足の夫の後を追いかけたいと思っているのかどうかは疑問だった。
この後、ノーラはダンから衝撃の事実を知らされる――。以上、『ミッドナイト・ライブラリー』の試し読みをお届けした。続きはぜひ、本書で楽しんでほしい。
■マット・ヘイグさんプロフィール
1975年イギリスのシェフィールド生まれ。大学卒業後、マーケティング会社を経営するなど様々な職を経たのちに作家業に専念。フィクション・ノンフィクションを問わず多岐にわたるジャンルの作品を執筆し、その多くがベストセラーとなっている。"Shadow Forest"でネスレ子どもの本賞金賞を受賞。3作品がカーネギー賞候補作に挙げられている。本書"The Midnight Library"は世界43カ国で刊行され、全英1位を獲得。各国でロングセラーに。2020年Goodreads Choice Awardsフィクション部門を受賞した。
■浅倉卓弥さんプロフィール
1966年札幌生まれ。作家・翻訳家。東京大学文学部卒業。2002年『四日間の奇蹟』で第1回『このミステリーがすごい!』大賞(金賞)を受賞。同作は映画化もされ、ミリオンセラーに。他の著作に『黄蝶舞う』(PHP研究所)など、訳書にウォリッツァー『天才作家の妻』(ハーパーコリンズ・ジャパン)ほか多数。
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