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二・二六事件の謎。秩父宮は何故あえて「遠回り」した?

歴史のダイヤグラム

 政治思想史が専門の放送大学教授、原武史さんには、『「民都』大阪対「帝都」東京』や『鉄道ひとつばなし』シリーズなど鉄道をめぐる著作も多い。原さんが、朝日新聞土曜別刷り「be」に連載している「歴史のダイヤグラム」が、同名の新書として朝日新聞出版から刊行された。鉄道にまつわる小さなエピソードと大きな事件から近現代の歴史を浮かび上がらせる手腕は、鮮やかだ。

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 「第一章 移動する天皇」「第二章 郊外の発見」「第三章 文学者の時刻表」「第四章 事件は沿線で起こる」「第五章 記憶の車窓から」からなる構成。天皇や皇族が登場する「第一章」には、歴史の秘話が納められ、読み応えがある。

 なかでも、「秩父宮、上越線回りの謎」に、ぞくりとした。二・二六事件が起きた1936(昭和11)2月26日、青森県・弘前の歩兵連隊の大隊長だった秩父宮は、見舞いを理由に弘前を発った。弘前にいたのは青年将校から引き離したいという昭和天皇の意向だった。

 青森に出て、午後10時発の常磐線回り上野行きの急行に乗り、翌日午前10時25分に着くのが、当時のダイヤで弘前から最も早く上京できるルートだったが、そうしなかった。弘前を午後11時22分に出る奥羽・羽越・信越本線回り大阪行きの急行に乗ろうとした。

 実際には発車が1時間遅れ、秩父宮は弘前で増結された特別車両に乗った。翌日、新潟県の長岡で上越線回りの上野行き普通列車に特別車両は増結された。途中、群馬県の水上から乗り込んできたのが、秩父宮に進講したこともある東京帝国大学教授の平泉澄である。平泉はわざわざ、このために水上まで向かったのだ。二人は高崎に着くまでの約1時間半にわたり、特別車両のなかで密談した。

 平泉は、昭和天皇のもう1人の弟、高松宮とともに昭和天皇を補佐するよう進言したと書いているが、逆に決起部隊に肩入れしていたという説もある。

 原さんは、秩父宮が最短ルートをとらずにわざわざ迂回したのは、平泉に会う必要があったからに違いないと推測する。また、「そもそも、秩父宮が事件直後に上京しようとした真の理由すらわかっていない」と書いている。

 青年将校たちが陸軍軍人でもあった秩父宮にシンパシーを感じていたことは有名な事実である。車中での密談の行方しだいで、昭和史が大きく変わっていたかもしれないと思うと、遠回りルートの選択が謎めいて見えてくる。

のんびり普通列車を楽しんだ谷崎潤一郎

 文学者の日記などを参考にした「第三章 文学者の時刻表」が、旅情をそそる。「啄木が愛した石狩の海」には、1907(明治40)年、北海道にわたり、新聞社に就職した石川啄木の日記が登場する。函館本線の小樽~札幌間には、日本海に沿って自然の野趣あふれる光景が今も残っている。翌年1月の日記にはこう記されている。

 「窓越しに見る雪の海、深碧の面が際限もなく皺立って、車輛を洗うかと許(ばか)り岸辺の岩に砕くる波の徂来(ゆきき)、碧い海の声の白さは降る雪よりも美しい。朝里張碓は斯くて後になって、銭函を過ぐれば石狩の平野である」

 冬の荒々しい日本海の光景が、啄木の胸を打っている。

 「谷崎潤一郎が提案する普通列車の旅」には、関西に移住後に、東京~大阪間を往復することが多かった谷崎のことが書かれている。谷崎がよく利用したのは、特急でも急行でもなく、37列車という夜行の普通列車だったというのだ。

 東京を午後11時20分に出て、大阪に翌日の午前11時45分に着く。いつも空いていて、谷崎が愛用した二等寝台車は、発車間際でも売り切れることがなかったという。朝、名古屋に着くと、関西の勢力圏に入ったことを感じた。

 「ぱっと目を覚ますともう窓の外がすっかり関西の景色になっている。その朝の気持ちが何ともいえない」

 スピード旅行の逆の「狭い範囲を出来るだけ長くかかって見て廻る旅のしかたを、少し奨励してみたらどうか」と提案している。

 スピードを追求してきた日本の鉄道。原さんは「移動している車内の時間を短くすることこそ究極のサービスだとする価値観自体、揺らぐことはなかった」と書いているが、最近は車中での料理や眺めを楽しむ企画列車も増えてきた。この点については、谷崎の提案に時代がようやく追いついてきた、と言えるのではないだろうか。

 村上春樹の長編小説『1Q84』に登場するJR青梅線と日本共産党が戦後まもなくの頃追求した「山村工作隊」との関係を論じたり、元連合赤軍幹部の永田洋子の逃避行を時刻表から推理したり、着眼の妙にはうならされる。終章「記憶の車窓から」に描かれる、原さんの個人的な体験もまた、微笑ましくも、切実さが伝わってくる。

 あとがきで、原さんは「鉄道は経済的な価値に還元されない文学や芸術と同様、人生にとって大切な文化ではないか」と提起している。あのとき乗った、あの列車に大事な思い出が詰まっている経験は誰にでもあるだろう。それを歴史的、文学的素材をもとに、国民の記憶にまで昇華させたのが、本書の真骨頂と言えよう。

 BOOKウォッチでは、原さんの『地形の思想史』(株式会社KADOKAWA)『「松本清張」で読む昭和史』(NHK出版新書)のほか、関連で『宮中五十年』(講談社学術文庫)『シークレット・エクスプレス』(毎日新聞出版)などを紹介済みだ。





  • 書名 歴史のダイヤグラム
  • サブタイトル鉄道に見る日本近現代史
  • 監修・編集・著者名原武史 著
  • 出版社名朝日新聞出版
  • 出版年月日2021年9月30日
  • 定価935円(税込)
  • 判型・ページ数新書判・267ページ
  • ISBN9784022951397

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