なぜ、皇太子一家はある「岬」を訪ね続けたのか? なぜ、陸軍と米軍は「台」を拠点にし続けたのか? なぜ、富士の「麓」でオウムは終末を望んだのか?
岬、峠、島、麓、湾、台、半島。この7つの地形に着目しながら現地を歩くと、死角に沈んだ日本の「思想史」が見えてくる、というのが本書『地形の思想史』(株式会社KADOKAWA)のコンセプトだ。
著者は、放送大学教授で明治学院大学名誉教授の原武史さん。専攻は日本政治思想史だが、皇室と鉄道にも詳しいことで知られる「鉄ちゃん」だ。著書は数々の賞で彩られている。『「民都」大阪対「帝都」東京』(講談社選書メチエ)=サントリー学芸賞、『大正天皇』(朝日選書、のち朝日文庫)=毎日出版文化賞、『滝山コミューン一九七四』(講談社、のち講談社文庫)=講談社ノンフィクション賞、『昭和天皇』(岩波新書)=司馬遼太郎賞といった具合。
日本経済新聞の元社会部記者だけあって、フットワークの軽さには定評がある。本書でも日本各地をめぐり、古層から近現代史まで「空間」という視点から、ユニークな着想を得ている。
冒頭の第一の疑問に答えよう。静岡県の浜名湖の奥に、地元の人から「プリンス岬」と呼ばれている小さな半島がある。平成の天皇が皇太子時代の一時期、このひなびた岬で家族とともに夏休みの数日を過ごしたことは、あまり知られていない。
皇室には、那須、葉山、そして静岡県須崎に御用邸がある。平成の天皇は皇太子時代に各御用邸ばかりではなく、軽井沢に滞在したことはよく知られている。そして、ご結婚後も10年あまり、夏はこの岬にある保養所を利用した。
浜名湖の奥、引佐細江という入り江の五味半島にある、平野社団西気賀保養所。その立地を原さんは、こう書いている。
「三方が天然の要塞である『水』に囲まれ、付け根の部分がなるべく狭い小さな半島であれば、不審者が侵入する余地は限られ、警備は少なくて済む。そしてその半島のなかに、一家がかろうじて滞在できる程度のごく普通の家があれば、申し分ないということになろう」
現存する施設を原さんは訪ねる。
「玄関を上がると、障子の向こうに三畳の取次の間が控え、その向こうには廊下がまっすぐに奥へと延びていた。左に曲がると、和室八畳と和室十畳が一続きになった南側の部屋に出る」
北側にも和室が三つあり、子供たちは成長するにつれて、それぞれ部屋をあてがわれるようになったのでは、と推測している。一家はここに滞在し、海水浴を楽しんだ。当時の新聞記事がそのようすを伝えている。
皇太子一家は1978年を最後に西気賀保養所を訪れなくなる。別荘が個人企業のものだったので問題になったという見方もあるが、原さんは子供たちが成長し、手狭になったからでは、と見ている。
「皇太子夫妻は時代の歩調に合わせるようにして、核家族にふさわしい空間を『岬』に確立させた。しかしそれは、長い戦後という時間のなかでは、つかの間の出来事にすぎなかったのだ」
こうした落ち着いた語り口で、「峠」と革命、「島」と隔離、「麓」と宗教、「湾」と伝説、「台」と軍隊、「半島」と政治、の各景が続く。
冒頭の第二の疑問にふれれば、神奈川県座間市にあった陸軍士官学校の所在地は相武台である。当時は「相武臺」と書いた。戦後、陸軍士官学校は米軍のキャンプ座間になり、陸上自衛隊が一部に駐屯しながら、引き続き米軍が駐留している。
「相武臺」の由来は「古事記」までさかのぼる。ヤマトタケルの東征に「相武国」という地名が出てくる。さらに「最モ武ヲ練リ鋭ヲ養フニ適ス」つまり、「武ヲ相ル」という意味が込められているそうだ。
そして第三の疑問。静岡県富士宮市にはオウム真理教の富士山総本部があり、近くの山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)に施設があった。その跡を訪ねた原さんは「オウム真理教のサティアンに至っては富士山から背を向けようとしているように思われた」と書いている。
また、富士宮市には日蓮正宗の総本山である大石寺があり、一時期は創価学会も大石寺に参詣した。なぜ、富士山に吸い寄せられるように、さまざまな教団が集まってくるのか、原さんは現地を歩く。
「山宮浅間神社の遥拝所がつくられた時期は、これまでに見たどの宗教施設よりもはるかに古い。ここには既存の宗教が立ち上がる前の、原初的な富士山に対する信仰のかたちが凝縮されている」
本書の取材のため、日本各地を訪ねた原さんは「地形が織り成す風景を目にすると、まるでそこにしかない風景が語りかけてくるかのような瞬間があるのを、まざまざと体験した」と、「あとがき」に書いている。原さんの旅はこれからも続きそうだ。
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