古代史を探る方法はいろいろある。本書『戸籍が語る古代の家族』(吉川弘文館)は当時の戸籍を手掛かりにしている。そんなものが残っていたのかと驚く人が多いかもしれない。日本は世界的に見ても、奇跡的に古代の戸籍が数多く残っている国なのだという。本書はそれらを詳細に分析している。当時の社会の様子が実にリアルによみがえってくる。
本書などをもとに、古代の戸籍について簡単におさらいしておこう。日本書紀によると、早くも540年に、「秦人・漢人」らによって戸籍を編んだという記述がある。渡来系の氏族を一定地域に定住させる際に作られた可能性があるという。現物は残っていない。
その後、670年には、のちに「庚午年籍」と呼ばれる本格的な戸籍が編纂される。「氏姓(うじかばね)の根本台帳」と言われる。上層階級の戸籍という色合いが強かったようだ。689年には改めて諸国の国司らに戸籍の作成が命じられた。こちらは全階層を対象としていたとみられる。690年に作成され、「庚寅年籍」と呼ばれている。持統天皇の時代だ。人々の「良賤」の区分けがされた。
「庚午年籍」も「庚寅年籍」も次第に散逸。結局のところ、古代の王権が大変なエネルギーで編纂した戸籍は、そのまま歴史の闇に消えていた。平安時代の途中から戸籍自体の編纂もされなくなったようだ。
古代の戸籍がよみがえるのは江戸時代末期になってから。東大寺の正倉院に保存されていた古文書を学者が整理していて、それらしきものがあることが分かった。東大寺は8世紀中葉の建立。造営にまつわる大量の文書類が長年、手つかずのまま保存されていた。巻子状態の文書の裏側が、古代の戸籍であることに気づいた学者がいたのだ。
その後の研究で、主として702年に作成された戸籍文書が、30年たって大量に処分され、その裏側を使って東大寺文書が作成されていたことが分かった。当時の紙は貴重品だったので、反故紙を再利用していたのだ。
では、どこの戸籍がどれくらい見つかったのか。本書によれば、御野国(現在の岐阜県)の戸籍が多い。「半布里」1119人、「春部里」666人、「栗栖太里」が437人、「肩々里」が133人、「三井田里」が157人という具合。「半布(はにゆう)里」は残存率93%という奇跡の戸籍だという。半布里があった郡は現在の美濃加茂市、白川町・東白川村、八百津町、川辺町、坂祝町、富加町などが含まれるエリアだ。富加町には羽生という地名が今も残る。
富加町役場周辺の発掘調査では多数の竪穴住居址が見つかっている。7世紀中葉から8世紀後半の重層的な遺構も検出ずみだというから、発見された戸籍の時代と対応している。日本列島の各地に様々な遺跡があるが、そこに住んでいた人々の固有名詞や年齢、家族構成まで判明しているケースはまれだろう。
同じく702年の戸籍では、西日本のケースも紹介されている。「西海道」の戸籍と言われている。「筑前国嶋郡川辺里」「豊前国上三毛郡塔里・加自久也里・同仲津郡丁里」「豊後国海部郡某里」など全部で1154人のデータが残されている。「川辺里」「丁里」では全体の4割程度が残存と推定されている。このほか721年の上総国の戸籍などもある。こちらは716人分が残っている。各地を合わせると、数千人の戸籍が残っている模様だ。
戸籍は中国の制度をまねたものだが、その中国では断片的にしか見つかっていないという。「東大寺文書」の貴重さが分かる。日本では近年、漆紙文書などの形でも発見され、解析が進んでいる。
本書は「今に伝わる古代の戸籍―プロローグ」、「古代の戸籍」(戸の源流と戸籍の成立、多様な古代戸籍)、「戸口と貧富」(古代の人口、戸の等級)、「戸籍からみた婚姻」(戸籍にみえる妻と夫、再婚する男と女)、「古代の恋愛と婚姻」(ツマドヒとヨバヒ、通いと住まい)、「流動性の高い古代社会」(古代女性のライフサイクル、生命をつなぐ)、「女性ばかりの平安時代の戸籍―エピローグ」に分かれる。著者の今津勝紀さんは岡山大学大学院社会文化科学研究科教授。日本古代史が専門。『日本古代の税制と社会』などの著書がある。
今津さんによると、どの戸籍からも共通に言える大原則は「夫婦別姓」だという。妻は自らの出自集団の氏姓を変更しない。「古より夫婦同姓が日本の伝統」などと言うのは全くの俗説と切り捨てる。
古代の戸籍は、「律令国家の支配下で天皇に政治的に従属する人々を登録する制度」(今津さん)。第一の目的は、租税徴収を徹底するためだったが、本書では「徴兵」のための制度でもあったとしている。ほぼ一戸から一人の兵士が登録されていたようだ。白村江の戦いなどで、近隣国との緊張が高まった時期があったことを反映していたのだろう。
戸籍から浮かび上がるのは、古代社会が、ごく一部の支配権力層と、圧倒的多数の下層によって構成されていたという厳粛な現実だ。当時は9ランクの階層があったそうだが、戸籍に登場する大半の人は下部の3ランクだ。奴婢も記載されている。8世紀初頭の人口は約450万人、そのうち奴婢が約20万人と見られる。奴婢は富裕層の「動産」でもあった。寺社でも、東大寺は200人以上、鹿島神宮も100人以上の奴婢を所有していた。
本書では、ちょうどこの時代を生きた山上憶良による「貧窮問答歌」も引用されている。律令体制下の人々の貧窮ぶりと、苛酷な税の取り立ての様子を写実的に歌った歌として知られる。この歌が正確に当時の人々の暮らしぶりを伝えているかは疑問もあるようだが、万葉集に載っているのだから、選者にとってそれほど違和感がなかったのだろう。
そうした「人民の困窮」に心を痛めていたのが当時の聖武天皇だった。仏教に深く帰依しており、東大寺の建立で、天地の安泰、民の救済を意図する。BOOKウォッチで紹介した『東大寺のなりたち』(岩波新書)には、当時の聖武天皇の思いが吐露されている。
「朕が治めるようになってから十年を経たが、自分に徳がないのか、罪を犯す者が多い。自分としては、夜通し寝ることも忘れて心遣いをしているが、近年、天候が不順だったり地震がしばしば起こったりするのは、まことに朕の政治が行き届いていないためで、多くの民を罪人にしてしまった。その責任はすべて自分一人にあり、諸々の庶民の与(あずか)るところではない」「まことに朕が不徳の致すところである」
私的な日記などで吐露しているのではない。長文の「詔」で明かしている。「寛大な政治を執行し、民の苦患を救いたいと思う」とも述べ、実際に様々な手立ても講じている。困窮者への米穀支給や減税などだ。
古代の戸籍は偶然、その聖武天皇ゆかりの東大寺から大量に見つかった。古代史研究では画期的な発見だった。大仏様の御加護があったのかもしれない。
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