女性天皇のことが何かと話題になっている。本書『持統天皇』(中公新書)は史上三人目、最も有名な女性天皇として歴史に残る持統天皇の生涯に迫った力作だ。「この国のかたちを決めた女帝」というキャッチが付いている。著者の瀧浪貞子さんは京都女子大名誉教授。日本古代史が専門だ。『光明皇后』(中公新書)、『女性天皇』(集英社新書)など多数の著書がある。
持統天皇といえば、「春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(たえ)の 衣(ころも)干したり 天の香久山」という万葉集の歌があまりにも有名だ。百人一首にも収められている。昔は中学の教科書にも載っていたと思う。今はどうだろうか。この歌の通説的な解説は本書によれば次の通りだ。
「当時は夏になると白い衣(布)を干す習慣があったのであろう、香具(久)山に映える白い衣を目にした持統が、夏の到来を感じて詠んだのである・・・香具山の新緑と白い衣の鮮やかな対比が初夏の光を感じさせ、躍動感あふれる雰囲気を醸し出しているが、それでいて歌にドッシリとした落ち着きと安定感がある」
この歌から漂ってくるのは、静かで平和な村の姿と、里人たちの平穏な暮らしぶりだ。詠み手の持統も、日本書紀によれば、「落ち着いた性格で度量の広い女帝」だったという。のちに飛鳥を舞台にした俳句に、正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」があるが、二つを重ね合わせれば、飛鳥時代のこの地方の、何とものどかで波風の少ない田園風景が眼前に浮かんでくる。
ところが、である。実際のところ、持統が生きたのはそんな悠長な時代ではなかった。生と死が隣り合わせの緊迫した日々。貴種ならばこそ、ちょっとした油断で粛清され、明日をも知れぬ運命となる。戦国時代さながらの権謀術数が渦巻いていた。そこを辛くも生き抜き、皇后、女性天皇、上皇として勝者の側を駆け抜けたのが、類まれな政治的資質も備えていた持統だということが本書を通じて活写される。
持統は645年に生まれた。父は中大兄皇子(後の天智天皇)。すぐに思い起こすのがこの年に始まった「大化の改新」だ。中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足らが蘇我氏を打倒して政治の実権を握った。公地公民制、班田収授法などの制度改革で、中央集権的支配体制の確立へと向かう。古代政治史の画期だ。
しかしながら、「蘇我氏を打倒」というのはきれいごとではない。重要儀礼の場で中大兄皇子自身が先頭に立って、蘇我入鹿に斬りかかった。要するにテロ、クーデターだ。
時の実力者だった入鹿は、中大兄皇子の異母兄の古人大兄皇子を天皇にしようとしていた。すでに643年、有力なライバルと見られた山背大兄王を襲撃、王や妃妾らを自害させていた。ところが今度は自分が殺され、その3か月後には古人大兄皇子も謀反の疑いでこれまた中大兄皇子側に討たれる。
さらに4年後の649年には時の右大臣、蘇我倉山田石川麻呂が中大兄皇子の殺害を企てているという密告があり、斬首14人、絞首9人。石川麻呂は入鹿殺害事件では中大兄皇子の側にあり、持統の母方の祖父でもあった。658年には先帝の息子、有間皇子の謀反計画が発覚、絞首刑になる。本書はいずれにも中大兄皇子や鎌足が関与していたとみなす。
一人また一人と権謀により粛清されていく。互いに姻戚関係がある皇族と重臣たちが入り乱れ、密議と裏切りが繰り返される。誰が味方で誰が敵なのか。はっきりしているのは、絶え間ない血の匂いの充満だ。そうした政変の中心人物、中大兄皇子は668年、ついに天智天皇となるのだが、わずか4年で亡くなる。
その時すでに、のちの持統天皇は、天智天皇の弟、大海人皇子の妻になっていた。そこで勃発するのが672年の壬申の乱――すなわち天智の弟、大海人皇子と、天智の息子、大友皇子との後継者争いだ。天智の後を誰が継ぐのか。持統もその渦中に巻き込まれ、いったん出家して吉野に退いていた大海人皇子の決起に従う。
本書の最大の特徴は、著者の推理が随所に入っていることである。もともと7世紀の話であり、典拠となるのは8世紀に成立した『日本書紀』など限られた史料しかない。それをもとにどのように解釈し、推理を組み立てるか。
例えば、中大兄皇子が非常に苦労して天皇の座にのし上がった理由。それは、中大兄皇子が「女帝・皇極天皇の実子」だったからだという。当時、「女帝の実子は天皇になれない」という不文律があったというのだ。そこでライバルを蹴落とし、「皇太子」の地位にとどまりながら実権を握り、正式に天皇になれる時機をうかがう。相次ぐ「謀略と粛清」は「野望を実現するため」だったというわけだ。
本書では「あくまで推測の域を出るものではないが」などと断りつつ、しばしば通説に疑問を呈し、著者の大胆な考えを開陳する。たとえば、「長槍事件」。669年、天智天皇が主催する琵琶湖での宴席のさなかに、大海人皇子が長槍で敷板を刺し貫くという衝撃的な事件が起きた。驚いた天智天皇は大海人皇子を殺そうとしたが、鎌足が制止して事なきを得た。これについて著者は言う。
「天智天皇の後継者問題が根底にあったという意見が多いことは確かである。しかし、はたしてそうか」
「原因は別のところにあったとわたくしは見る」。すなわち、天皇になってから遊興を好む天智の政治姿勢に「天皇弟」の立場から諫めた行動と考える。なぜならすでに「新帝を決めるのは天皇」という形ができており、大海人皇子が異議を唱えるのは不可能になっていた、と見るからだ。
壬申の乱をめぐる推理も極めて大胆かつ綿密だ。その詳細は本書に譲るとして、大海人皇子が勝利し、天武天皇になる。しかし、686年に亡くなる。その年にはまたしても身内で血なまぐさい事件――天武天皇の第三皇子(母は持統ではない)、大津皇子の謀反事件が起きている。器量・才幹が抜群といわれ、世評の高かった皇子は自害した。誰が背後で謀ったか、容易に想像が付く。大化の改新以来、同種の事件が延々と繰り返されている。
持統は、すぐには即位せず政務を執る。実子の草壁皇子の成長を期待していた。しかし、689年、皇子は急逝。690年になって持統が即位。97年まで在位し、その後上皇になって、703年に亡くなった。
持統は天武を神格化した、と言われている。本書ではその手段として万葉集を重視している。万葉集は持統の時代に編纂が始まった。著者は、『万葉集』は歌による「王権」(天皇家)の歴史」、いわば「皇位継承の歴史」を明確化するために編輯されたと強調する。
とりわけ柿本人麻呂による挽歌で、天武天皇が「神」とされ、地上の創始者とされていることに注目する。「これは持統天皇の意を汲んだ柿本人麻呂によって生み出された思想であった」「いわゆる天皇の神格化は『万葉集』においてはじめて見られたものであり、持統・人麻呂によって形成された観念といってよい」。
当時、「歌」は声に出し節をつけて詠うことで、さまざまな機能が発揮されると信じられていた。「持統天皇はそうした伝統を持つ歌の力に期待を寄せたのであり、それが『万葉集』であったと考える」とも書いている。
そうしたことを踏まえて、冒頭の「春過ぎて 夏来(きた)るらし・・・」をさらに深く解釈する。「白栲(たえ)の衣」は「衣替えの衣」ではなく、ミソギのための斎衣との見方を紹介、「天武天皇についで愛息草壁皇子を失った悲しみを喪服から斎衣に替え、新たな政務に取り組もうとする持統の並々ならぬ決意」を表している歌と読み替える。
著者は、天武には"汚名"が付きまとったとも書いている。いったん出家し皇位継承者の資格を捨てたにかかわらず、天智天皇の子の大友皇子を倒して即位した。端的に言って皇位の簒奪者だった。しかし、持統は、この天武を「神」として祭り上げることですべてを帳消しにした、というのだ。このあたりの見方も興味深い。持統の並外れた政治的能力を推察させる。
本書は新書だが、まるで大河ドラマでも見ているかのように7世紀中葉から後半に至る天皇の座をめぐる抗争をあぶりだす。著者は学者だが、限られた史料から時代を駆け抜けた権力者たちの思いを探ろうとする想像力とパワーは、作家なみだ。単に推論するだけでなく「胸中を思うと、さすがに熱いものがこみあげてくる」と感情移入も忘れない。もっとも、本書が伝える血みどろの古代史は、あまりに生々しく強烈すぎて「大河ドラマ」にはなじまないということになるだろうが。
全体は年次を追って8章に分かれている。登場人物の関係が極めて複雑だが、系図や写真、年表類が極めて適切に繰り返し各ページに配置され、読者の理解を助ける。著者は編集部の尽力に感謝しているが、その通りだと思った。
本書を読みながら改めて想起したのは「女性天皇」をめぐる昨今の事情だ。持統を振り返ってもわかるように、女性天皇が生まれるのは、天皇家にとって平穏な時代ではない。そこではさらに「その次」をめぐる混乱も待ち受けている。
読売新聞政治部が書いた『令和誕生―― 退位・改元の黒衣たち』(新潮社)によると、麻生副総理は「皇室のことなら壬申の乱を勉強しないといけない」と語っているそうだ。妹が皇室に嫁いでいる麻生氏にとっては、切実な思いかもしれない。読売新聞政治部は、同書で、仮に世論が「愛子派」と「悠仁派」に二分されるような事態になれば、「国民統合の象徴」である天皇の地位は足元から揺らぐおそれがある、と憂慮していた。
持統の時代と現在では、社会が異なるが、持統は、本書が言うように「この国のかたちを決めた女帝」でもある。「大嘗祭」のルーツは、壬申の乱に勝利した天武天皇の即位で初めて実施されたものだという。そのような今につながる「伝統」と、時代に合わせた「革新」のはざまで天皇制はどうなっていくのか。本書はいろいろと考えさせられる。とりわけ「女性天皇」「女系天皇」を論議するうえで大いに参考になるのではないだろうか。
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