日本でいちばん有名なお寺と言えば、奈良の東大寺だ。日本人のおそらく10人に1人、いやもっと多くの人が行ったことがあるに違いない。何年か前に久しぶりに訪ねたら、アジアからの観光客も目立っていた。中国人はもちろん、韓国からもたくさんの高校生が修学旅行で来ている。東大寺はいまや日本を代表する名刹にとどまらない。アジアに冠たる大寺となっている。
本書『東大寺のなりたち』(岩波新書)は、その東大寺の歴史を、建立当時にまでさかのぼって振り返ったものだ。
東大寺は8世紀に入って、聖武天皇(701~56)のお声がかりでつくられた。当時、全国に国分寺ができたが、その総本山の役回りが東大寺だ。
高さ約15メートルの巨大な大仏が、これまた途方もなくでかい大仏殿に鎮座する。創建当時はさらに両側に高さ70メートルを超える七重の塔もあったというから、周囲を圧する威容だ。天平の人々はたまげたことだろう。
大仏ができた752年には、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が行われた。国内だけでなく、海外からも祝賀の賓客が訪れた。本書によれば、新羅からは王子を団長に700余人の使節団がやってきた。たいへん立派な寺ができたという情報は海を越えて伝わっていた。
54年には、当時最高の僧と言われた鑑真が6度目の来日チャレンジで平城京にたどり着いた。以来5年間を東大寺で過ごしている。振り返ると、東大寺は創建当初から桁外れに国際的なお寺だったことがよくわかる。
何かの本で、大仏をどうやってつくったかイラストを見たことがある。現場がそのまま巨大な鋳造合金工場になっていた。日本中の銅がかき集められ、溶かして型に流し込む。さらにメッキを施す。東大寺の建物や大仏は、いわば当時のハイテクの集積物だ。工事に動員された何十万人もの人々は、仏教とセットになった最先端技術を目の当たりにし、仏教のスーパーパワーぶりに驚嘆したことだろう。地方から動員された人は、郷里に帰り、すごさを吹聴したに違いない。
本書の著者、森本公誠さんは東大寺の長老。2004年から07年まで第218代の別当(管長)を務めた。京都大学文学部・同大学院を卒業した文学博士。エジプトのカイロ大学の留学経験もあり、仏教者だが、イスラム史家としても知られる。『初期イスラム時代エジプト税制史の研究』で日経・経済図書文化賞、『イスラム帝国夜話』で日本翻訳文化賞などを受賞している。仏教とイスラム世界に通暁する稀有な学者僧だ。
本書では、東大寺の前史から説き起こしているが、力点を置いているのは聖武天皇に関する部分だ。聖武天皇はなぜ東大寺や盧舎那仏(大仏)をつくろうと思ったのか。
「聖武天皇は『華厳経』を深く理解し、それに基づいて盧舎那仏を造った。いわば仏教の説く世界を現実の世界に生かそうとしたが、それは天皇の政治姿勢ときわめて密接な関係にある。・・・天皇がどのような思いで民を治めて来たのか、その政治思想の展開をたどることによって、大仏発願がその帰結だったことを明らかにしたいと思う」
こうして森本さんは丹念に、聖武天皇を生んだ時代と、天皇が深く仏教に帰依して行った経緯をたどる。身近なところで起きた不幸では皇子の早逝。世間では疫病の蔓延や天候不順による飢餓、大地震も発生する。そのころの天皇の思いを森本さんは次のように紹介する。
「まことに朕が不徳の致すところである」
「朕が治めるようになってから十年を経たが、自分に徳がないのか、罪を犯す者が多い。自分としては、夜通し寝ることも忘れて心遣いをしているが、近年、天候が不順だったり地震がしばしば起こったりするのは、まことに朕の政治が行き届いていないためで、多くの民を罪人にしてしまった。その責任はすべて自分一人にあり、諸々の庶民の与(あずか)るところではない」
7世紀末に律令国家としての骨格が整い、すでに絶対権力者となっていたはずの天皇が、このような深い反省を言葉にする。私的な日記などで吐露しているのではない。長文の「詔」で明かしている。何とも謙虚な人だと感心する。「寛大な政治を執行し、民の苦患を救いたいと思う」とも述べ、実際に様々な手立ても講じている。困窮者への米穀支給や減税などだ。しばしば恩赦を行い、罪一等も減じている。死刑も減刑された。
そうしたなかで、人身一新を図る究極の国家的プロジェクトとして構想されたのが、全国に国分寺を建立することと、大仏造営だった。「詔」ではこのようなことが告げられている。
「自分は即位して以来、生ある者すべての救済を心がけ、慈しみの情をもって人民を治めてきた。しかしながら、...仏法の恩徳については国土すべてにゆきわたっているとはいえない...そこで、仏法の威霊によって天地が安泰となり、末代まで残る立派な事業を成就させて、動物であれ植物であれ悉く栄えるようにと望む・・・大仏造営の大事業を行い、そのことを広く世界に呼びかけ、その趣旨に賛同する者をしてわが友(知識)となし、事業を通じて、最後にはみな同じく仏の利益を受け、迷いのない悟りの境地に到達できるようにさせたい」
こうした文言からは、天皇が自らの権威づけのために東大寺や大仏をつくったのではなく、純粋に天地の安泰、民の救済を目的にしていたということが分かる。趣旨に賛同する者はみなわが友だという。大仏は単に図体が大きいだけではない。建立の精神からして懐が深いのだ。当時から多くの人を受け入れる、アジア的な広がりを持っていたことが分かる。本書を読んで、東大寺と大仏の「器の大きさ」を改めて知った。
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