「父の失踪、書きかけの小説、『銀河鉄道の夜』。あの夏、三つの未完の物語が『私』を突き動かした」――。
島本理生さんの新刊『星のように離れて雨のように散った』(文藝春秋)は、これまでと趣の異なる作品だった。
文藝春秋公式サイトでは、本作の執筆に先立ち、島本さんから寄せられたというエッセイの一部が公開されている。
これを読むと、どうやら主人公の「私」に島本さん自身が投影されているらしいことがわかる。
「私の手元には、消えた父の残した手紙が一通だけある。その文体からは、私が身内から聞いていた父の人物像とは、かなり異なる印象を受ける。この連載長編は、主人公の『私』と、消えた父親と、『銀河鉄道の夜』という三つの未完の物語をとおして、銀河の闇のむこうに消えたものを見つけたくて書き始めた」
大学院生の春は、「宮沢賢治とキリスト教」を研究テーマにしている。修士論文で創作文芸作品を、副論文で『銀河鉄道の夜』の考察を提出する予定だ。
宮沢賢治について「生理的に苦手だったかもしれない」としながらも、『銀河鉄道の夜』は「妙に懐かしいというか、不思議な近しさを覚える」という。
島本さん自身、幼い頃は「たぶん明確に宮沢賢治作品が嫌いだった」が、アニメ版『銀河鉄道の夜』のビデオだけは繰り返し見ていたそうだ。島本さんが生まれたのは1983年。映画が公開されたのは1985年。
実父は島本さんが6、7歳の頃に失踪して以来、行方不明という。『銀河鉄道の夜』に惹かれるのは、「実父がまだいた頃に見ていたことも、関係しているように思う」と書いている。
「じつは数週間前まで、自分がこんな小説を書くとすら思っていなかった。ほんとうの意味で消えた父親について書こうと考えたことがなかったのだ。そしていきなり始まったということは、たぶん、そういう時期やタイミングが来たのではないかと思う」
手をつけ始めたばかりの論文が、忘れてしまったたくさんの「なにか大事なこと」をたどる「遠い旅」へと、春を導いていく――。
父が失踪したとき、食卓の上に1通の手紙が残されていた。父の人柄を具体的に振り返ることができるものは、今となってはこれしかない。
「僕がいなくなることを、イオンの旅を書くことを、とても遠い旅に向かうことを決定させたのは、ほかならぬ、あなたです。あなたはもうこれ以上、僕の思想、思考、本質を分断してはいけない。(中略)さようなら、茉里。僕のことは死んだと思ってください」
春は小学生にして、「一人の人間が向こう側へいってしまう一部始終」を目の当たりにした。「私もいつかあちら側に行ってしまうのではないだろうか」。大人になった春もまた、父のように突然消えてしまいそうな「危うさ」を孕んでいた。
「春、結婚したい」。出会って1年になる亜紀君からのプロポーズは、春にとって嬉しいはずだった。ところが、「愛してる」と言われた瞬間に「ふっと心が途切れた」。
「あなたが、私を愛してるって、どういうこと?」
春はアイロン掛けが好きだ。あらゆることを「冷静に処理し続けなくてはならない日常」に、時々混乱する。だから「角とか四角とか直線に戻す作業」や「時間をかけて正しい形に直すこと」が、必要なのだ。
「アイロン掛けなら好きだし、ずっとできる。明日も、あさっても。あれは一人きりの作業だ。だけど私は他者との関係がずっと続くという感覚が分からない」
ほんとうの「私」にも他者にも、これまで向き合ってこなかった。亜紀君が「結婚」や「愛」と言い出した日から、「なにか」が変わってしまった。しかし、その「なにか」が、春には分からないのだった。
「たしかに私には、曖昧さの中にほんとうを隠して区別を避けているところがあるかもしれない。『ほんとう、のことは、時々、怖いんです』」
大きな影となっていた、父と生き分かれた記憶。2020年の夏、勇気を出してもう1度「別れの記憶をなぞり直してみよう」と、春は父と過ごした地を訪れる――。
冒頭のエッセイを読んで、これは現実なのか小説なのかと、曖昧な線引きのまま読了した。著者メッセージがあると作品をより深く理解できると改めて実感したところで、あとがきに意外なことが書かれていた。
「正直に書くと、ここ数年、なぜか自分の小説に以前のような愛着が持てず、悩み迷うことも多かったです。振り返れば、それくらいに強烈な変化が押し寄せた数年だったのだとも思います」
その「強烈な変化」は、いったいどんな形で作品に反映されるのだろう。またまた新しい一面を見せてくれそうだ。
■島本理生さんプロフィール
1983年東京都生まれ。98年「ヨル」で「鳩よ!」掌編小説コンクール第二期10月号当選(年間MVP受賞)。2001年「シルエット」で群像新人文学賞優秀作、03年「リトル・バイ・リトル」で野間文芸新人賞、15年『Red』で島清恋愛文学賞、18年『ファーストラヴ』で直木賞を受賞。
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