夏目漱石の弟子は、大きく三つに分けられる。第一は、松山中学、第五高等学校(熊本)時代の教え子ら、二つ目は東京帝国大学時代の学生、三つ目が晩年、漱石山房に集まった若者だ。寺田寅彦は五高の生徒だったから第一の代表者。第一はほかに高浜虚子、松根東洋城がいる。二つ目は小宮豊隆、森田草平ら、三つ目は芥川龍之介らだ。
漱石は28歳で松山、翌年熊本へ転勤した。熊本や帰京後の東京・千駄木ではまだ30代だ。寅彦は熊本や千駄木の漱石宅をしばしば訪れている。このため、本書『漱石先生』(中公文庫)は、晩年の苦虫をかみつぶした姿と違う、くすくす笑う若々しい漱石、文豪になる前の漱石が描かれる。
千駄木時代、寅彦はよく漱石を上野・奏楽堂で開かれる演奏会に誘った。ある時の曲目に、管弦楽で蛙の鳴き声を模した曲があった。帰りに上野の森を歩きながら、漱石はその蛙の声を真似て一人で面白がり、「さもくすぐったいように笑っておられた」。そのあとの食事でも、一、二杯の酒に顔を赤くして(漱石はアルコールに弱かった)、また蛙の鳴き声を真似してしきりに笑っていた。熊本時代の俳句の会でも、自らの奇抜な句を披露しながら自分でも可笑しがって、くすくす笑ったという。のちの早稲田の漱石山房で、漱石はこんなに楽しそうに笑っただろうか。
『吾輩は猫である』の寒月は、寅彦がモデルといわれる。寒月は「首縊りの力学」なるテーマについて演説、ハンギングの歴史を旧約聖書、古代ギリシャ時代から説き、さらに難解な方程式を示しながら弁じるが、これは寅彦からのネタだった。
ある時、寅彦が原書の物理学雑誌に載った、力学的に見たハンギングの話を漱石に話すと、興味を持った漱石は、寅彦の名でその雑誌を借りてもらった。漱石はこの英書の物理専門誌を読み込み、『猫』に取り入れた。本書を解説した寅彦の弟子の物理学者・中谷宇吉郎は、後にこの話を寅彦から聞いて、古いその物理学雑誌を探しだして読んでみた。すると、寒月の演説の冒頭は原文そのままの直訳で、エピソードや方程式もほぼ原文通りという。作家に珍しく漱石は理科系に強く、『猫』を書き出したころは精神的、時間的な余裕があったことをうかがわせる。
寅彦は漱石にならって俳句を始めたが、漱石句をめぐる話も興味深い。
「落ちざまに虻(あぶ)を伏せたる椿哉」という漱石の句がある。椿は大ぶりな花が、そのままいきなり落花する。蜜を吸う虻は逃げようもない。その一瞬を、色鮮やかに、ユーモラスに描いた句だ。ただ、椿の花は落ち始める時にはうつ向いていても、空中で回転して仰向けに着地するのでは、という疑問がわいた。物理学者の寅彦はそこで観察、実験する。すると確かに木が高いほどその傾向があると気付く。一方で、低いとそのままうつ向いたまま落ちる。しかも虻が花の芯にしがみついていたら、重心が微妙に移動して空中の反転作用が減じると想像される、つまり虻を伏せやすくする、と分析した。いかにも科学者らしい句の鑑賞だ。
「顔にふるゝ芭蕉涼しや籐の寝椅子」「涼しさや蚊帳の中より和歌の浦」などの句から、寅彦は日本的な涼しさ、風流に思いを巡らす。「涼しい顔」とは汚職疑惑の議員が再び立候補するときの顔、大事な約束を忘れても平気を装う顔、俗流を超越した高士の顔と紹介し、「義理人情の着物を脱ぎ棄て、毀誉褒貶の圏外へ飛出せばこの世は涼しいにちがいない。この点では禅僧と収賄議員との間にもいくらか相通ずるものがあるかもしれない」と続ける。このあたりは『草枕』の一節のようだ。
この随筆「涼味数題」の終盤に、涼しさの対極として、「ヒトラーの独裁政治」なる文言が唐突に現れる。随筆の初出は昭和8年8月の「週刊朝日」だ。この年1933年1月、ヒトラーは首相に就任、3月ドイツ国会は全権委任法を可決、ヒトラーの独裁権が確立する。鋭敏な寅彦は、はやくもこの男に底知れぬ狂気を見てとったのかもしれない。寅彦は2年後に亡くなるから、その後の世界の破局は知るよしもない。
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