寺田寅彦(1878~1935年)は東京帝大教授の実験物理学者として活躍したが、夏目漱石の愛弟子で、随筆の名手としても知られている。本書『科学歳時記』(角川ソフィア文庫)は明治末期から昭和初期に書かれた寅彦の代表的随筆39本を集めたもの。このほど再版された。
巻頭の「病室の花」は大正9(1920)年に発表された。当時、胃を患って入院していた病室を彩った花々の思い出だ。ベゴニア(ベコニアと表記)や蘭、シクラメン(サイクラメンと表記)、ポインセチアなどが登場する。ここでは漱石と思しき、「N先生が病気重態という報知を受けて見舞に行った時の事を想い出した。あの時に江戸川の大曲りの花屋へ寄って求めたのがやはりベコニアであった。紙で包んだ花鉢を大事にぶら下げて車にも乗らず早稲田まで持っていった」「重態の先生には面会は許されなかった。しかし、持って行った花は夫人が病床へ運んでくれた。夫人はやがて病室から出てきて、『奇麗だなと云っていましたよ』と云った。考えてみるとこれが先生から間接にでも受けた最後の言葉であった。今自分は先生の生命を奪い去った病(注:胃潰瘍)と同じ病で入院している。(中略)同じ季節に同じ病気をして同じベコニアの花を枕元に見るというのは偶然の事といえば偶然であるが、よく考えてみたらそこに何かの必然の因果があるのではないかという気がした」。
寅彦の科学者らしい冷静な観察眼と漱石への強い思いがにじみ出ている。寅彦と漱石は、漱石が熊本の第五高等学校の英語教師として赴任、寅彦が入学して以来の付き合いだ。その後、漱石は東京帝大に転じ、寅彦も帝大理学部に入ってさらに交友が深まった。漱石の代表作「吾輩は猫である」に登場する元教え子の理学士・水島寒月のモデルは寅彦だといわれている。
寅彦は科学随筆が圧倒的に有名だが、この随筆集には、妊娠中で病気の妻を植物園に連れて出かけた「団栗」(どんぐり)など珠玉の名作が収録されている。「団栗」は植物園の地面に転がるどんぐりを無心に拾い集めた在りし日の妻の思い出。明治38(1905)年に「ホトトギス」に掲載されたが、このとき妻はすでに亡くなっていた。「あけて六つになる忘れ形見のみつ坊をつれて、この植物園へ遊びにきて、昔ながらの団栗を拾わせた」。はしゃぐ子を眺めながら、「亡妻のあらゆる短所と長所、団栗のすきな事も折鶴の上手な事も、なんにも遺伝して差支えはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この児に繰返させたくないものだと、しみじみそう思ったのである」。
寅彦の人柄を知るうえで、よく編まれた随筆集である。編集は角川書店創業者の角川源義氏。氏は解説で、「本書には、寅彦文学の記念碑ともいうべき、『団栗』『竜舌蘭』を初めとして、(中略)歳時記風に俳諧世界、即ち季節感を色んな風に考察し、詠嘆したものを選んだ」と編集方針を述べている。
多くの科学随筆や「天災は忘れたころにやってくる」の名言(これは書き物の中には残っていない)で知られた寅彦の素顔を知るうえで非常に興味深い一冊だ。
本書に収められた「春六題」(大正10=1921年)には「近ごろ、アインシュタインの研究によってニュートンの力学が根抵(こんてい)から打ち壊された、というような話が世界中で持て囃されている」と相対性原理発表の衝撃も語られている。「しかし、相対原理が一般化されて重力に関する学者の考が一変しても、林檎はやはり下へ落ち、彼岸の中日には太陽が春分点に来る、これだけは確実である。力やエネルギーの概念がどうなったところで、建築や土木工事の設計書に変更を要するような心配はない」と誤解や曲解を戒めている。「この新しい理論を完全に理解する事はそう容易な事ではないだろう。アインシュタインが自分の今度書くものを理解する人は世界中に1ダースとはあるまいと云ったそうである」。相対性原理が同時代人にどれほど大きな衝撃を与えたかを知るうえでも興味深い。
1950年に出た源義氏の解説のあとに、サイエンスライターとして名高い竹内薫氏の現代から見た解説があるのも親切だ。ソフィア文庫にはほかに、『天災と日本人(編・山折哲雄)』『銀座アルプス(解説・有馬朗人)』の2冊もある。併せて読むとさらに深みが増すはずだ。
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