昨年(2017年)は正岡子規と夏目漱石の生誕150周年の記念の年で、各所で様々な企画が催されたが、東京外国語大学でも教員や海外の研究者による「子規と漱石の近代日本」と題するシンポジウムが開かれた。本書『世界のなかの子規・漱石と近代日本』(勉誠出版)はそのシンポの出席者の論文を中心に、海外の研究者も含め関連する講演や論考、座談会を集めた。専門的な論文だが、どれもさほど難解ではなく、子規や漱石の愛読者なら、無理なく読み進めていけそうだ。
子規と漱石といえば、まず俳句であり、写生である。写生とは主観を抑制しつつ外界をとらえる方法論だが、子規と漱石の写生はかなり趣が違う。
子規は若いころは、ベースボールに親しんだようにスポーツ好きで、身体感覚がすぐれ、反射神経が鋭い男だった。生き生きした身体感覚が俳句の基底にある。例えば「五月雨の晴間や屋根を直す音」という句は、「視覚を中心とする五感がとらえる外界の一局面の鮮やかさ」が特徴であり、子規は「眼に映る光景をほとんどカメラ的にとらえて一七文字にまとめた」と東外大の柴田勝二さんは見る。子規は、画家でもあった蕪村の絵画的な表現を高く評価し、蕪村再評価のきっかけをつくった。
一方、漱石は青年期から一貫して思想、理念を重視する表現者だった。漱石の「秋の空名もなき山の愈高し」は、松山時代の作品で、秋の晴れ渡った空の清澄さが、平凡な山を天に向かってそびえたつように見せるという実景を読んだ句だが、ここには「中学の一教員として暮らす漱石自身の自己認識と秘められた矜持が感じられる」と柴田さんは指摘、「漱石の写生は外界の感覚的な描写より、むしろ自身のある心的状態が対象に込められている」。描いている光景だけでなく、それを見ている自分の存在が句のなかにせりあがって来る。「我」を作中に織り込むのだ。
なるほど。そういえば、修善寺大患で九死に一生を得た直後の有名な句、「秋の江に打ち込む杭の響かな」は、修善寺を流れる川の増水によって傷んだ川岸を、地元の人々が修復している様子を、臥せりながら聞いて作った句だが、これには自身の傷んだ身体が「修復」されつつある喜びが込められている。膨大な子規と漱石の俳句を、こんな見方で鑑賞していくと、二人の文学観、自然観の相違がみえてきて面白そうだ。
子規と漱石の友情はつとに知られ、文学的にも相互依存的な関係とされるが、これをクイア(同性愛者などを肯定的に評価する理論)の視点で理解しようするのは、米ボストン大学のキース・ヴィンセントさんという日本近代文学の研究者だ。
二人の親密さは尋常でなく、ほとんど神話的な高みに達し、互いの作品にも親密さが見え隠れする。子規のよく知られた「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は、松山の愚陀仏庵で同居していた漱石と別れ、お金も借りて帰京中に奈良に寄った際の作品。これは明らかに漱石の「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」の返答句とみられる。一方、漱石の晩年の『こころ』では、死んでしまった友人「k」は、子規と漱石の発音に共通する子音からとられたのでは、という。「漱石は子規の死後も子規の亡霊と会話を続けた」とヴィンセントさんはみる。
『吾輩は猫である』の翻訳(抄訳も含む)が中国で二十八種もあると知って驚いた。漱石作品のほとんどが翻訳されている中国でも、異例の人気だ。特徴的なのは2000年以降にそのうち二十二種類が続々、翻訳されたこと。北京師範大学の王志松さんの報告だ。
戦前から『猫』は余裕の文学、低回趣味として中国で受け入れられ、「文章の構造と文辞はともに完璧」という評価がされてきた。新中国成立後も「資本主義制度批判の世界名著」「日本の優れたブルジョワ文学」の位置づけだった。80年代以降になると、改革開放政策の浸透により、イデオロギー色が薄れ、個人主義、人間性への渇望が強まり、読まれ方も大きく変わった。さらに、教育部(日本の文科省に相当)が高校生むけに三十二種の課外図書の目録を作成、その後その拡大版目録に『猫』が入ったため、若者の需要が一気に高まったという。出版界の商業主義の影響も大きい。
「国家は学問や文芸に関与すべきではない」という理念で、文部省が授与する博士号を拒否、同省が設けた文芸委員会も厳しく批判した漱石にとって、なんとも皮肉な話だ。
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