本書『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社)は、歴史についてのガイダンス本ではない。テーマとして扱っているのは単なる「歴史」ではなく、「歴史問題」だからだ。いわゆる「歴史修正主義」に関する問題に、歴史学者や研究者はどう対応すべきか――。海外事情にまで目配りしながら説き起こしている。最近の日本学術会議をめぐる混乱とも、無縁ではないような気がして興味深かった。
本書のベースになっているのは2019年9月3日に立命館大学で開催された一般公開シンポジウム「なぜ『歴史』はねらわれるのか?――歴史認識問題に揺れる学知と社会」だ。本書はその出席者の発表などをまとめたもので、以下の構成になっている。
第一章 「歴史」はどう狙われたのか?(倉橋耕平) 第二章 植民地主義忘却の世界史(前川一郎) 第三章 なぜ"加害"の歴史を問うことは難しいのか(前川一郎) 第四章 「自虐史観」批判と対峙する(呉座勇一) 第五章 歴史に「物語」はなぜ必要か(辻田真佐憲) 第六章 座談会 「日本人」のための「歴史」をどう学び、どう教えるか
それぞれの筆者の経歴を補足すると、倉橋氏は1982年生まれ。立命館大学ほか非常勤講師。専攻は社会学・メディア文化論・ジェンダー論。主著に『歴史修正主義とサブカルチャー 90年代保守言説のメディア文化』(青弓社)、共著に『ネット右翼とは何か』(青弓社)がある。前川氏は69年生まれ。立命館大学グローバル教養学部教授。英帝国史・植民地主義史専攻。著書に『イギリス帝国と南アフリカ――南アフリカ連邦の形成 1899~1912』(ミネルヴァ書房)。
呉座氏は80年生まれ。国際日本文化研究センター助教。日本中世史専攻。著書に、40万部超のベストセラーとなった『応仁の乱』(中公新書)のほか、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)などがある。早くから陰謀論や偽史の蔓延を問題視し、歴史学界の不作為に警鐘を鳴らし続けてきたという。辻田氏は84年生まれ。近現代史研究者。『空気の検閲――大日本帝国の表現規制』(光文社新書)、『大本営発表――改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書)など著書多数。
本書「はじめに」で、解説している。私たちはいま、歴史修正主義の時代に生きていると。自由な発言もままならない。「日本が戦争や植民地支配を通じて、アジアの近隣諸国に多大な苦痛と損害をもたらした事実を話したりすると・・・問題化されたり、非難されたりするようになりました」。
歴史修正主義とは、もともとは従来の歴史的定説に対する批判論のことだが、近年、戦後の歴史観を「自虐史観」として否定するような主張や、自国の歴史にとって不都合な歴史を否定する立場、排外主義的な論を指すことが多い。これらは、日本の歴史学者の世界では概ね退けられているにも関わらず、なぜ一定の広がりを持つのか――。本書は次のような疑問を挙げる。
・全国のブックストアではなぜ「愛国」や「嫌韓・嫌中」をウリにした本や雑誌が平積みにされているのか。 ・なぜ「歴史認識」をめぐって、ネットは「無法地帯」と化し、「炎上」するのか。 ・こうしたことは日本だけに見られる現象なのか。世界ではどんなことが起こっていて、それらは日本の動向とどんな関係があるのか。 ・結局のところ、そんな言動の行きつく先に、いったい何が待ち構えているのか。
本書の登場者の中で最も知名度があるのは呉座氏だろう。『応仁の乱』(中公新書)であまりにも有名だが、最近は百田尚樹氏の『日本国紀』や井沢元彦氏の『逆説の日本史』などを批判していることでも知られる。「第四章 『自虐史観』批判と対峙する」でいろいろと思うところを述べている。
その中で、著名な歴史学者の網野善彦氏(1928~2004)が、「新しい歴史教科書をつくる会」に意外と好意的だったことを紹介している。歴史学界の大勢は「つくる会」を痛烈に批判していたが、網野氏はそうではなかったというのだ。「一つの歴史の見方としては面白いところもある」と語っていたという。
網野氏は天皇制反対論者であり、戦後歴史学を「自虐史観」と糾弾する「つくる会」などの自由主義史観にシンパシーを持っていたとは到底考えられない、としながらも、「上から目線」で自由主義史観を批判する戦後歴史学に違和感を持っていたことは間違いない、つまり、日本の歴史学界の閉鎖性を批判していたと呉座氏は見る。いわば反語的な意味合いで「面白い」と語っていたことがうかがえる。
呉座氏によれば、歴史学界には「アカデミズムの中でさえ健全な議論が行われていれば、在野・民間でどんな奇説珍説が唱えられていようと問題ない」という風潮があるという。「自称・歴史研究家」の素人を相手にすることじたいが、歴史学界の格や品位を落とすという権威主義的な価値観も見受けられるそうだ。呉座氏が百田氏や井沢氏を批判することに対し、「わざわざ相手の土俵に上がって論争したら、向こうの思うつぼだ」と忠告する人もいたという。
再び本書の「はじめに」に戻ると、「つくる会」に始まる歴史修正主義は、国民が共有できる「歴史の全体像」や「見取り図」を、つまりは「国民の物語」をいかに示すのか、という問題を突き付けていたと見る。ネットや漫画、専門家ではない人々の言説などの「大衆文化」を介して、社会に「国民の物語」を提供したのは歴史修正主義の側だった、というわけだ。
こうした分析を通して、最近の日本学術会議の問題を見つめると、やや重なるところがあるように感じられる。あえて単純化すれば「専門家でない人=政治」が「専門家=学術会議」に容喙するという構図だ。10月19日の朝日新聞の世論調査によると、確かに菅内閣の支持率は65%から52%に下がっているが、学術会議が推薦した学者の一部を首相が任命しなかったことに対しては、「妥当」が31%、「妥当ではない」が36%。日本中の多くの学者が反発・抗議している割には、国民の反応は鈍い。この問題を巡っては、「妥当」とする側から多数のフェイク情報が流され広まったことも各メディアで指摘され、検証されているが、とにかく専門家である学者たちの「正論」が、専門家ではない国民に圧倒的に支持されているわけではないことが浮かび上がる。
関連で、ちょっと気になったことを付け加えておきたい。昭和・平成・令和の天皇は公務のほかに、学術研究もされている。つまり学者でもある。今の天皇は歴史研究者。水運史が専門で古文書も読める。1992年、前出の網野氏が学習院大に招かれ講演したことがある。その後の内輪の懇親会では皇太子が網野氏の向かいに座り、互いにビールをつぎあいながら専門的な歴史の話をしたというのだ(「アエラ」93年6月15日号、「学者プリンスの『神』と『人間』」)。網野氏にすぐには答えられないような、かなり突っ込んだ質問もされたそうだ。
皇太子時代の著書『水運史から世界の水へ』(NHK出版、2019年4月刊)の巻末には参考資料の一覧が掲載されている。そこには網野氏の『海と列島の中世』も入っている。現在の天皇陛下は、「反天皇制」とされる歴史学者、網野氏とも談論する歴史学者であって、網野氏の著作も参考にされているということはあまり知られていないのではないか。とにかく学問の世界は幅が広く奥が深い。
もう一つ、気になったのは今回、任命されなかった東大教授、加藤陽子氏のことだ。加藤氏は『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮社)の大ベストセラーで知られる。同書は小林秀雄賞を受賞している。日本有数の難関校、神奈川県の栄光学園で中高生を相手に5日間の特別講義した内容をもとにしている。
その加藤氏の名前をつい最近、日経新聞で見かけた。10月10日の社会面「上皇ご夫妻 長引く外出自粛」という記事の中だ。「歴史談議が好きなご夫妻は、在位中は歴史家の半藤一利、保阪正康、加藤陽子の3氏を頻繁に御所に招かれていた」とあった。
首相官邸は当然そうした事実を承知していたはずだ。普通に考えれば、知りつつ加藤氏を任命しなかったということになるのではないか。この記事の筆者、井上亮・編集委員は宮内庁担当の敏腕記者として知られる。2006年7月に元宮内庁長官・富田朝彦が付けていたとされるメモをスクープ、新聞協会賞を受賞している。
そういえば17年夏ごろ話題になった教科書騒動を思い出した。慰安婦問題に言及する歴史教科書を採択した全国の中学に、採択中止を求める抗議のはがきが大量に送られていたことがわかり、マスコミで取り上げられた。ターゲットになったのは、兵庫県の私立灘中学や東京の有名私立中、国立大の付属中などだ。
本書で呉座氏は「つくる会」などの歴史教科書は採択率が低く、公的な歴史教育の在り様が大きく変わるような事態には至っていない、としている。しかしながら、「教室の外側」では歴史修正主義が蔓延したとも。主として難関校出身者で構成される学術会議は「教室の外側」との関わり方をどのようにすべきなのか。本書はいろいろな意味で示唆に富んでいると感じた。
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