新聞の小さな書籍広告に目が留まった。先月初めごろだったと思う。『水運史から世界の水へ』(NHK出版)。タイトルよりも「徳仁親王」という著者名にひきつけられた。皇太子殿下である。さっそく購入した。
2019年5月1日の今日から元号が替り、皇太子が天皇になられた。そのよき日に本欄で紹介させていただくには、ぴったりの本だ。
正直言って、内容に多大な期待はしていなかった。というのも、「皇太子殿下のご講演の記録・全9篇」を集めたと紹介されていたからである。一般に、講演の再録は内容が薄くなりがちだ。しかも、「世界水フォーラム」の基調講演などが中心になっているという。いわゆる国際会議の場で、型通りの開会あいさつをしたようなものが並んでいるのではないかと思っていた。ひょっとしたら、事務局が代筆しているのかもしれないと。
ところがそんな不埒な予想は見事に裏切られた。力が入っているのだ。収録されている最初の講演は1987年、日本学術会議で開かれた「第3回水資源に関するシンポジウム」でのテムズ川の水上交通の歴史に関するもの。最新は2018年にブラジリアで開かれた第8回世界水フォーラムの基調講演だ。時間的にかなりの幅がある。30年余りにわたって「水」という一つのテーマについて、じっくり考察され続けてきた集大成になっている。ご自身が「はじめに」でこう記している。
「水問題は、あたかも水がどこにでも流れていくように、世界の紛争、貧困、環境、農業、エネルギー、教育、ジェンダーなどさまざまな分野に縦横無尽に関わってきます」 「本書を通して、世界のさまざまな水問題、そして、主に皇太子としての私の水への取り組みについてご理解をいただければ幸いです」
本書の構成は以下の通りだ。
第1章 平和と繁栄、そして幸福のための水 第2章 京都と地方を結ぶ水の道 ―古代・中世の琵琶湖・淀川水運を中心として 第3章 中世における瀬戸内海水運について ―兵庫の港を中心に 第4章 オックスフォードにおける私の研究 第5章 17~18世紀におけるテムズ川の水上交通について 第6章 江戸と水運 第7章 水災害とその歴史 ―日本における地震による津波災害をふりかえって 第8章 世界の水問題の現状と課題 ―UNSGABでの活動を終えて 参考収録 Quest for Better Relations between People and Water
第1章の原文は英語。それを日本語に訳している。18年の講演なので最新の関心事と問題意識を知ることができる。第3章では学生時代にすでに歴史学の泰斗、林屋辰三郎氏と交流があったことが記されている。第7、8章は学習院大学などでの講義がもとになっている。世界水フォーラム「名誉総裁」としてのスピーチだけでなく、「学者・研究者」としての講義録まで多彩だ。
学習院大では日本中世の海上交通、オックスフォード大学ではテムズ川水運史を研究。もともとは「海上輸送」がテーマだった。その後、「水災害」「津波」「水問題」などにも論及されるようになったことがわかる。
「水運」から「水問題」全般に関心が広がったのには、二つの体験があるようだ。一つは学生時代にタイを訪問されたときのこと。水道の水をそのまま飲めない。初めてミネラルウォーターを飲んだ。そのとき世界には、水道の水を直接口にできない国が存在するということを実感したという。
もう一つは、英国留学から戻り、ネパールを訪問した時のこと。ヒマラヤを一望できる地帯の山歩きをしているときに水汲みの人たちに遭遇した。蛇口から出るほんのわずかな水を求めて多くの女性や子供たちが集まっていた。「この水で持ってきた甕(かめ)を満たすのにどのくらい時間がかかるのだろうか」「女性や子供が多いな」「水汲みというのもたいへんな仕事だな」――思わずカメラのシャッターを切っていた。
「この光景こそ、私が水問題を考える時にいつも脳裏に浮かぶものであり、私の取り組みの原点となっているように思います」と回想している。「水問題」が「ジェンダー」とも関わると考えておられるのは、この体験によるものだろう。
地球上には、まだ安全な水を飲むことができない人々や、整った衛生施設を利用できない人々が多く存在する。その一方で、多すぎる水は土砂災害、津波や高潮などで被害をもたらす。さらには地球温暖化で海面上昇なども問題になっている。
「私自身、日本はもとより、世界で困難な状況に置かれている人々に、今後とも心を寄せていきたいと思っています」
このあたりを読めば、「水」についての思考の広さと深さ、さらには可能な範囲で行動をされようとしているご意向も察知することができる。
本書をながめながら思い出したのは「アエラ」の1993年6月15日号だ。「プリンスの結婚」が特集されている。そこで編集部の隈元信一記者(当時)が「学者プリンスの『神』と『人間』」について書いている。特に記憶に残っているのは、皇太子と歴史学者の網野善彦氏との「対話」のくだりだ。
92年に網野氏が学習院大で講演した。その後の内輪の懇親会で皇太子が網野氏の向かいに座り、互いにビールをつぎあいながら歴史の話をしたというのだ。そこでかなり細かい質問をされ、網野氏はすぐに答えることができなかった。後で調べたら、皇太子の指摘の通りだった。
「細部にこだわる資質を持っているし、論文も実証的で堅実ですから、自由に勉強できれば、いい歴史家になれるでしょうね」と網野氏が語っている。
ここで網野氏が触れている「論文」とは、おそらく82年に「交通史研究」に発表された「『兵庫北関入舩納帳』の一考察」のことだろう。室町時代に摂津国に存在していた兵庫北関の関銭賦課記録。漢文で記された古文書を読み解いたものだ。本書でも第3章で論及されている。
本書巻末には参考資料の一覧が掲載されている。テムズの水運については英文資料が並ぶ。中世の水運については、網野氏の『海と列島の中世』なども入っている。
新しい天皇は、英文の資料を読んで英語で講演するだけでなく、日本の古文書の解読もできる。それも学者のレベルで。そのように天皇を育んだのが水問題というわけだ。すでに国連本部でも2回ほど講演し、2007年から8年間、「国連 水と衛生に関する諮問委員会」(UNSGAB)の名誉総裁もしていた。本書で「私の視野を大きく広げてくれた『水』に感謝しています」と強調している。
先のアエラ記事では『象徴天皇という物語』などで知られる歴史学者の赤坂憲雄さんが、冗談交じりに、「もしも天皇制が生き残るとしたら、誰も反対できないエコロジー、緑の王かな」と語っていた。本書を読むと、新しい天皇が、「水」をテーマにすでに地球規模で活動され、環境問題に関心を持ち、世界の現状と未来について思考を続けておられることがはっきりする。昭和、平成の天皇は生物学を主に顕微鏡で丹念に研究されていが、令和の天皇はより広がりのある「歴史」を選んだ。本書を通して読者は確実に、新天皇の「熱い思い」と社会的なメッセージを感じ取ることができるのではないか。
本欄では天皇関連で『天皇のお言葉 明治・大正・昭和・平成』(幻冬舎新書)、『中世史講義』(ちくま新書)、『旅する天皇――平成30年間の旅の記録と秘話』(小学館)、『奪われた「三種の神器」――皇位継承の中世史』(講談社現代新書)、水関連で『日本が売られる』(幻冬舎新書)なども紹介している。
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