新婚旅行も唯一の家族での海外旅行も香港だったという「香港」フリークスの評者としては、本書『アンダードッグス』(株式会社KADOKAWA)に、「待ってました」とばかり快哉を叫んだ。1997年、返還前夜の香港を舞台に、「アンダードッグス=負け犬たち」が、大国の情報機関を相手に国家機密を奪い取るスリリングなミステリーだ。
主人公の古葉慶太は、元農水省官僚の証券マン。第一志望の大学にも入れず、志望の就職先にも入れず、どうにか入った職場で何の警戒心ももたず、指示されるままに動いた結果、政治家のスケープゴートに使われ、何もかも失った過去があった。
ある日、大口顧客であるイタリア人大富豪のマッシモに呼び出される。香港の銀行からバミューダ諸島の法律事務所とマルタの法人設立コンサルタントへ送られる大量のフロッピーディスクと書類を奪い取れ、というのだ。断ったら、「命がない」と脅された。
世界主要国の要人の投資記録と日本の閣僚や財界人の節税用のトンネル会社の登記台帳のデータだから政治家に復讐すればいい、とも唆す。どのみち逃げ場がないので、引き受けることに。
マッシモが準備したチームには国籍もバラバラな一癖も二癖もあるメンバーがいた。元銀行員のイギリス人ジャービス、元IT技術者のフィンランド人イラリ、政府機関に勤める香港人林彩華、そして警護役のオーストラリア人ミア。
古葉が香港に着いてそうそう思いがけないことが待っていた。ネタばれになるので書けないが、これではストーリーが動かないだろうと心配するような普通あり得ない設定だ。
さらに計画を狙うアメリカ、ロシア、イギリスなどの情報機関が迫ってくる。先の読めない展開にはらはらするばかりだ。
本書を読み、なぜ舞台が中国返還前の香港であるかを考えた。中国は長く西側諸国と国交を結ばず断絶していた。各国は中国の動向を探るため、隣接する英国植民地の香港に拠点を構え、情報を収集した。大使館や報道機関がスパイの隠れ蓑になった。派手なアクションにはぴったりだ。冷戦盛りの頃から90年代まで香港を舞台に多くのミステリーが書かれた。評者はジョン・ル・カレの『スクールボーイ閣下』(1977年)をその筆頭に挙げたい。アジアでは戦前の上海、戦後は香港が「魔都」としてイメージされた。だが、返還後はあまりミステリーの舞台になることもなくなった。
また奪取するブツがフロッピーディスクという時代的な制約もあるだろう。今ならあり得ないツールだ。
1997年の返還直前、香港に詳しい経済の専門家に今後の予測を尋ねたことがある。まだ中国の経済が膨張する前だったが、徐々に香港の地位は低下していくだろうという答えだった。
ところがどうだろう。中国経済は驚異的に成長し、今や香港は飲み込まれんばかりだ。さらに50年間保証された「一国二制度」も、今年(2020年)事実上反故にされ、言論の自由は完全に圧殺されたばかりだ。
香港を舞台に派手なアクションを行うには、返還前しかなかったのである。他国の情報機関が走り回る余地はもうない。往時の香港の街角の描写に著者の香港への愛が感じられる。
実は、本書には過去パート(1997年)と現代パート(2018年)があり、交錯して進行する。現代パートの主人公は古葉の義理の娘・瑛美という設定だ。この二つが絡み合い、怒涛のラストへなだれ込む。
言うまでもなく、重要なピースとなるデータと文書というのは、2016年に明るみに出た「パナマ文書」と翌年の「バミューダ文書」がモデルだろう。
各国の現旧の指導者や親族の名前が明るみに出た。日本では著名な経済人や大手企業がタックスヘイブンに会社を所有していることは伝えられたが、それらはただちに違法とは言えず、また国会議員の名前はなかったため、報道も盛り上がりに欠けた。
本書では報道ではなく、「復讐」が動機となっていたが、こういう使い方もあるのかと感心した。
著者の長浦京さんは1967年埼玉県生まれ。出版社勤務、音楽ライターなどを経て放送作家に。その後、指定難病にかかり闘病生活に入った。2011年、退院後に初めて書いた『赤刃』で、第6回小説現代長編新人賞を受賞し、デビュー。17年、2作目の『リボルバー・リリー』で第19回大藪春彦賞を受賞。19年、3作目『マーダーズ』で第2回細谷正充賞を受賞。
BOOKウォッチでは、「パナマ文書」関連で『NPOメディアが切り開くジャーナリズム』(公益財団法人新聞通信調査会)、『ルポ タックスヘイブン――秘密文書が暴く、税逃れのリアル』 (朝日新書)、最近の香港事情について『香港と日本』(ちくま新書)、『香港デモ戦記』 (集英社新書)を紹介している。
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