「倭寇」は有名だが、「倭館」はどうだろうか。あまり知られていないのではないか。中世から江戸末期にかけて、朝鮮にあった日本の出先施設のことだ。本書『倭館――鎖国時代の日本人町』(文春新書)は特に、「鎖国期」の倭館を扱っている。
徳川幕府が鎖国政策を推進した江戸時代。日本と外国との窓口は長崎の出島だけだったと思われがちだ。ところが実際には朝鮮に「倭館」が置かれ、そこを拠点に朝鮮との外交や貿易が続いていた。
本書は2002年の刊。倭館に関しては、その後も手軽に読める類書がないようだ。著者の田代和生(かずい)さんは1946年まれ。本書刊行当時は慶応義塾大学文学部教授。専攻は近世日朝関係史。『書き替えられた国書――徳川・朝鮮外交の舞台裏』(中公新書、1983年)で注目された。長年、対馬藩関係の史料を調査している。本書刊行後には『日朝交易と対馬藩』(創文社、2007年)、『新・倭館―鎖国時代の日本人町』(ゆまに書房、2011年)なども出している。このテーマでは第一人者だ。
冒頭で田代さんは書いている。倭館があったことを、ほとんどの日本人は知らないと。高校の歴史教科書をみても、朝鮮通信使については記述があるが、倭館のことは一言も触れられていないそうだ。本書はその実像を、長年の研究をもとに、わかりやすく伝えている。
倭館の始まりは明らかではない。おそらく15世紀の初めだろうといわれている。14世紀末に朝鮮王朝(李氏朝鮮)ができたことがきっかけになり、交易を求める日本人が増える。そこで朝鮮の都と三つの港に倭館がつくられた。海賊まがいの行為を繰り返す倭寇を懐柔して、倭館で交易を認めたケースもあったようだ。とくに交易に最も熱心だったのが対馬藩の宗氏だった。何しろ朝鮮とは50キロしか離れていない。
その後、いくつかの事件や、秀吉の朝鮮出兵などで交流が途絶えた時期もあったが、宗氏が関係改善に努める。1607年には朝鮮通信使が来日して日朝両国間に講和が成立。釜山に改めて倭館が設置された。これを「古倭館」という。
その後、ここが手狭になり、1678年、釜山の草梁というところに新たに「草梁倭館」がつくられる。本書では「新倭館」と呼んでいる。200年にわたって存続することになる。
本書を読んで、いろいろと驚いたことがあった。まず「新倭館」のスケール。なんと敷地が約10万坪もあったという。長崎の出島が約4000坪といわれているから、その25倍。東西南北の長さが記されているが、短くても450メートル、長い辺は750メートル。海に面した側は港になっており、二基の桟橋が付き出している。日本からの船が倭館に接岸できる。
敷地内には多数の建物があった。役所、役人の住居、商館、貿易品を収蔵する蔵などのほか、「改所」もある。出入りする人々の身体検査や船の積荷検査をする場所だ。役人は外交、貿易のみならず、横目・目付という監視役もいる。館内の治安維持を担当する。医師、鷹匠、通詞や留学生たちもおり、それぞれの住居がある。町屋もあって、生活必需品を売る店もある。畳職人や大工も常駐している。神社やお寺もある。茶碗などを作る焼物工場もある。敷地内は整然と区画整理され、小さな城下町のようになっている。ここに常時450人前後が居住していた。全員が対馬藩の男子。当時の対馬の人口は約3万人。うち壮年男子は1万人程度だから、対馬藩の壮年男子の約20人に1人はこの倭館で仕事をしていたことになるという。対馬藩の有名な儒学者、雨森芳洲も倭館に滞在していたことがある。 1630年代に徳川幕府は鎖国政策を推し進め、東南アジアにあった日本人町は消滅した。しかし、ここ釜山だけは例外。対馬藩直轄の日本人町ができていた。
彼らはここで何をしていたのか。徳川政権は、朝鮮とは直接外交交渉をせず、対馬藩が請け負っていた。30年に一回ほど、朝鮮通信使が来日したが、普段はこの倭館で対馬藩の役人が朝鮮の役人と交渉していた。朝鮮や中国に関する情報収集も行っていた。
中でも重要だったのが、交易だ。日本側は朝鮮人参や中国産の高級生糸、朝鮮側は日本で当時豊富に産出していた銀が欲しかった。生糸については以下のようなルートが確立していたという。
日本側の出発地は京都。生糸を買うのは、西陣に生糸を供給している分糸屋だ。20人ほどの糸屋が共同で銀を提供する。その銀を「お銀船」という専用の小舟に乗せて高瀬川から伏見、大坂、瀬戸内海、下関、壱岐、対馬経由で釜山の倭館に運び込む。そこで北京から漢城(ソウル)を経て釜山に運ばれていた生糸と交換、逆戻りしながら運んでくる。京都・釜山・漢城・北京を往還する「絹の道」「銀の道」が確立していたのだという。
朝鮮人参は当時、強壮剤として日本国内で引っ張りだこだった。将軍吉宗は苗そのものを所望し、対馬藩は苦労して入手、献上している。
倭館の館主は二年交代。克明な記録を付けることが義務づけられていた。それが当時の日朝交流史の解明に大いに役立っている。BOOKウォッチで紹介した『オランダ商館長が見た江戸の災害』(講談社現代新書)によると、出島のオランダ商館長は克明な報告を義務づけられていたが、日本も倭館で同じことをしていたわけだ。
本書には倭館がらみの事件も掲載されている。密貿易で死罪になった役人もいる。朝鮮人女性との「密通」も摘発されている。倭館では遊女の立ち入りが禁止されていた。野生の虎が倭館に侵入したので、仕留めたという記録も残っている。はく製にして日本に送り届けたそうだ。加藤清正の虎退治はフィクションだが、こちらは事実だと本書は記している。
著者の田代さんは女性。したがって食べ物の話も詳しい。倭館では日朝の宴会も開かれた。日本側が用意した宴席の具体的なメニューも並んでいる。これがびっくりするほど豪華なのだ。異国の地で素材入手には苦労したと思われるが、すでに江戸中期において日本料理が高い完成度に達していたことが分かる。
「本膳」「二の膳」「引て」「後段」などという順に多数の皿が並ぶ。「杉箱焼」というのが特に喜ばれたという。料理に使っている素材を数えると、なんと71種。デザートだけで11品目と豪華だ。和菓子はいつも朝鮮側から「絶品」と高い評価を受けていた。器や盛り付けの美しさも称えられている。いわゆる懐石料理のコースが、ほぼ出来上がっている。
朝鮮通信使が来日した時は、幕府や、道中の大名家が接待することになっていた。そのため倭館で朝鮮人の接待に習熟している対馬藩に問い合わせがあったという。汁物の前には、日本では使わないスプーンを置くとか、デザートには朝鮮では珍しい柑橘類を入れるとかの心配りを伝えたそうだ。
近年、対馬には、韓国からの観光客が多いと聞くが、江戸時代に培った交流がどこかで生きているのかもしれない。人口3万人の小藩が、藩存続のために時には幕府も手玉に取りながら、日本国を代表するような形で外交や通商を肩代わりし、食文化の交流にも貢献していた大健闘ぶりに改めて敬意を表したいと思った。
倭館のことは、今も高校の教科書に載っていないのだろうか。日韓関係がぎくしゃくしている時だからこそ、先人のたくましさと知恵に学ぶところもありそうだ。
BOOKウォッチでは関連で、上記の『オランダ商館長が見た江戸の災害』のほか、『出島遊女と阿蘭陀通詞――日蘭交流の陰の立役者』(勉誠出版)、幕末の開国前から琉球には多数の外国人が来ていたことをまとめた『青い眼の琉球往来――ペリー以前とペリー以後』(芙蓉書房出版)、すでに戦国時代に南米に奴隷として売られていた日本人がいたという『移民と日本人』(無明舎出版)、そのほか『地図でみるアイヌの歴史』(明石書店)、『戦国日本と大航海時代――秀吉・家康・政宗の外交戦略』(中公新書)なども紹介している。
古代の朝鮮半島との関係では、『「異形」の古墳――朝鮮半島の前方後円墳』(角川選書)など多数紹介ずみだ。
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