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クリムト「接吻」の前で3時間立ち尽くした!

美意識の値段

 雑誌などの特集で、ビジネスマンもアートに関心を持つべきだというような特集を見かけることが増えてきた。単行本もいろいろ出ているようだ。本書『美意識の値段』 (集英社新書)も同類本かなと想像した。著者の山口桂さんが美術品のオークションで知られるクリスティーズジャパンの社長だからである。実際に手に取ってみると、その予想はちょっと外れた。

感性的な要素も必要

 本書の中でも、「アートは『仕事に役立つ教養』なのか」という問いかけがある。山口さんの答えは、「『はい、此処がこの様に活かせます』と云う類いの答えは持ち合わせていないし、もし、仕事に役立てようと云う目的でアートに触れようと云う発想をするなら、それはアートや美意識の本質を捉えていない故だと思う」と正直だ。そしてこう補足する。

 「唯、ひとつはっきり云えるとすれば、美的教養と云うのは『本物的教養』だとも思う。・・・美術を楽しむ事は、モノにしろ人にしろ、『本物』と云うのを見抜く力みたいなものを磨く事に通じてもいる・・・」

 この辺りは、しばしば言われることでもある。加えて、観る眼を磨くには「知識や教養だけではなく、感性的な要素も必要だと思っている」と強調しているところが本書のキモだろう。

 かつて山口さんは、ウィーンに出かけてクリムトの「接吻」の前に立った時、3時間以上もその場から全く動けなくなったという。アートを意識して観るようになって45年になるが、これほど長く一つの作品の前で動けなくなったことは未だにない、と振り返っている。

 それは、山口さんの「感性」と「接吻」が真の意味で共振したためだろう。「3時間立ち尽くす」というような感性がない人には、美的教養づくりはむずかしいということでもある。この段階で大半のビジネスマンは振り落とされるに違いない。ちなみに昨年、日本で久しぶりに本格的なクリムト展が開催され、東京では57万人以上が観覧した。「立ち尽くした」美術ファンも多かったようだ。

日本美術史家の父による特訓

 山口さんは1963年、東京・神田生まれの江戸っ子だ。父親は日本美術の研究者。古いタイプの趣味人だった。合気道七段、裏千家茶道と観世流のお能を習い、歌舞伎鑑賞などが趣味。長男の山口さんを跡取りの日本美術史家にしたいという思いがあったようだ。幼少時から徹底的に父の特訓を受けさせられたという。茶道や能はもちろん、京都・奈良の神社仏閣、美術館・博物館の旅。帰りの新幹線の中では「聚光院の襖絵を描いたのは、狩野の誰だ?」「聖徳太子が"高麗尺"で作った寺は何寺だ?」とテストされる。答えられないと、お弁当を買ってもらえない。日本美術史版の「巨人の星」だった。

 中高生になると、山口さんはこうした詰め込み日本美術教育から逃れ、クイーンやレッド・ツェッペリンなどの洋楽にのめりこむ。引っ越し先の国立市では、名画座に通いつめ外国映画の魅力に取りつかれた。しかし、立教大学に入ってから転機が訪れる。専攻の仏文になじめない。悶々としているうちに、19世紀のジャポニズムを通して、「日本回帰」へと舵を切る。

 卒業後は広告代理店でバブルを謳歌していたが、父親が一年間、米国の美術館で研究することになった。英語ができないので「カバン持ち、家事手伝い」で付いてこないかと誘われる。そうして山口さんもボストン美術館やシカゴ美術館などの収蔵庫で、流出した日本絵画の名品に直に接するようになる。

 その後、クリスティーズ・ニューヨークの日本・韓国美術部長の知己を得て、ロンドンやニューヨークで19年間の海外勤務、というのが山口さんの経歴だ。ロンドンのクリスティーズには鑑定士学校があるはずなので、たぶんそこでも学んだのだろう。

「私が選ぶ『必見日本美術』ベスト30」も

 本書は「第一章 美術品オークションと云う世界」「第二章 私のアート半世紀」「第三章 美術品を巡る世にも不思議な物語」「第四章 日本美術、その鑑賞の流儀」「第五章 審美眼の磨き方」「第六章 美意識を生活に活かす」という構成。さらにそれぞれの章の中で「日本美術品の史上最高価格の誕生」「世界が評価する日本の現代美術」などが語られている。「私が選ぶ『必見日本美術』ベスト30」などもある。

 美術に関わる関係者には作家、画商、学芸員、美術史家、美術ジャーナリスト、大手マスコミの文化事業部、アート書の編集者など様々な人がいる。絵の見方については、正統的な美術史はもちろん、図像学や図像解釈学、心理学など多方面からのアプローチが可能だ。たいがいは学者によるものなので、本書のようなオークション会社の代表者の本は珍しい。

 そういえば、誰の発言だったか忘れたが、「絵」の価値はひっくり返せばわかる、カンバスの裏側に値段が書いてあるからだ、と指摘した人がいたと記憶する。作家で美術家の池田満寿夫は著書『美の値段』の中で、画家はアトリエで芸術品を制作しているつもりだが、作品が完成すると、美術品という名の商品になり、もはや画家がコントロールできない、あまり気持ちのいいものではない、と語っていた。

 山口さんは「アート」を商品として「マーケット」の中で扱う立場だ。その世界の「ビジネス司祭」のような存在。もちろん「絵の裏側」を知り尽くしている。だが、冒頭でも書いたように、ハードなロックなどに耽溺し、「接吻」の前で立ち尽くした過去もある。本書は美術史家などの類書に比べると、山口さんの「感性」をベースにしつつ、作品の市場での評価も踏まえている点で、より一般の美術ファンの目線に近いと言えるのではないか。

 先の著書で池田は強調していた。「美術品は結果的には売買される商品ではあるが、最終的には理想と精神を売るものだ」。

 池田の著書は『美の値段』、本書のタイトルは『美意識の値段』。山口さんは、池田の思いを多少なりとも意識していたのかもしれない。

  • 書名 美意識の値段
  • 監修・編集・著者名山口桂 著
  • 出版社名集英社
  • 出版年月日2020年1月22日
  • 定価本体840円+税
  • 判型・ページ数新書判・208ページ
  • ISBN9784087211085
 

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