スポーツや文化イベントに関係した人で、サントリーの宣伝部長だった若林覚さんを知らなければモグリだ。業界の有名人。その若林さんが、長年の体験などを振りかえった『私の美術漫歩--広告からアートへ、民から官へ』(生活の友社)を出版した。
つるつる頭の独特の風貌と柔和な物腰。あふれるアイデアと幅広い交友関係で、数々の新事業を創造し、近年は練馬区立美術館館長として腕を振るった。サラリーマンの枠をはるかに超えるエネルギーで人生を疾走し、存分に楽しんできた若林さんの生き方は、数多の「会社人間」にとっては大いに参考になるだろう。
本書は書き下ろした部分と、これまでにあちこちに書いてきたエッセイが入り混じっている。
山梨県の田舎に生まれた若林さんは、旺文社模試では全国で常に300番以内だったが、東大文Ⅰを落ちて、1967年に早稲田大政経学部に進む。特別奨学金貸与で授業料免除だった。
ジャーナリズムにあこがれ「早稲田新聞会」に入ったら、なんとそこは革マル派の拠点。ヘルメットとゲバ棒、カメラを渡され、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止闘争の取材で羽田に行かされる。戦後の学生運動史に残る67年の10.8闘争だ。目と鼻の先で京大生の山崎博昭君が亡くなった。
自身に主義主張はなかったので、青春の通過儀礼は終わったと思って半年で新聞会を逃げ出す。ブラブラ生活を続けたのち、こんどは「山稜会」に。「雪も岩もやる先鋭的クライマー集団」がうたい文句のサークルだ。一年で100日も山に入ったこともある。山岳部ほど厳しくはないだろうと踏んでいたが、山稜会も命がけだった。
北海道の日高山脈を縦断した翌々年には、同じルートをたどった九州大学のワンゲル部がクマに襲われ、5人パーティのうち3人が亡くなった。厳冬期の中央アルプス全山縦走をした時は、リーダーが300メートル転落して即死。遺体をそりに乗せて運び現地で荼毘に付した。ご両親・ご家族に申し訳ないとの自責の念で、しばらく立ち直れなかった。毎年の追悼登山はもう50回近くになる。
肝を冷やすような体験を重ねているうちに、就活時期を迎える。銀行や商社は早々と決まり、残っているのは一部のメーカーとマスコミだけ。「近代新聞論」というゼミに属していた若林さんは、ゼミ論を出さずにすむ算段を先生に持ちかける。
「下手な論文を見ても疲れるだけ。論文なしにしましょう。その代わり皆で旅行に行きましょう。旅の途中、人品骨柄問題なしとしたら、可以上を下さい」
こういうことを思いついて、実行に移すことができるのが早大生であり、その典型ともいえる若林さんらしい。その結果、大半のゼミ生は優か良、言い出しっぺの若林さんだけが可だった。ちなみにゼミ仲間からは共同通信や時事通信の社長、ビール会社の社長らを輩出しているという。
サントリーには当時から文化的なイメージがあった。芥川賞作家の開高健と直木賞作家の山口瞳を出しており、若林さんは好感を持っていた。試験で何度かの関門をくぐって最後は佐治敬三社長による最終面接。「酒は呑めるのかね」「まあそこそこ」「そこそことは何やねん」「そこのそこまで飲めます」。
この笑えるやりとりで見事合格。しかし、ジャーナリズムにはまだ未練があった。サントリーの内定を得た後も、いくつか大手の新聞社や雑誌社を受ける。最終面接で必ず聞かれた。「どこか他社に内定は?」「サントリーに内定しています」「わが社が内定を出したら?」「サントリーを蹴って、御社に来ます」。あのサントリーが内定を出しているくらいだから、自分の力量・人柄は評価済みということをアピールしたつもりだったが、これが藪蛇だった。サントリーは大手マスコミの最大級の広告主。そのサントリーの内定者を引き抜くマスコミなどないという業界常識を、全部落ちてから知ることになる。
このように22歳ごろまでのエピソードだけでも盛りだくさん。若林さんの人物像が彷彿とする。地頭がよく、ちょっとおっちょこちょいなところもあるが、機転も利いて、リスクのあることに挑戦する突進力と勇気もある。なにより、憎めない。
こうした人間力と人間関係能力が、サントリーに入社してから全面展開する。北京国際マラソン、サントリーホール、サントリー美術館...。
日本の大企業で、もしこの会社の貢献がなければ、文化状況が相当違っていただろう、と思い浮かぶ会社の筆頭がサントリーだ。とくにサントリーホールの存在は大きい。このホールがなかったら、日本におけるクラシック音楽のコンサート状況はどうなっていたか。オーナーに、最初に設立構想のプレゼンをしたのが若林さんだった。
本書では若林さんが関わった多数のCMについても裏話が語られている。このあたりは広告関係者必読だろう。公立美術館館長に転身して、入場者を倍増させたあたりは、地域の美術館で奮闘する関係者に参考になるに違いない。
多数の有名人との交遊話も楽しい。たとえば作家の井上靖さん。銀座の文壇バーで知り合い、一緒に旅行に誘われるようになった、と書いている。「私のような浅学菲才の輩との旅は息抜きであったかもしれない」と謙遜しているが、そんなことはないだろう。有名な文化人は、無能な人とは付き合わないはずだ。時間が無駄になる。
特に重要なのが、自分を何かに利用しようとしているかどうか。その匂いが少しでも漂うと、有名人は警戒する。天真爛漫な若林さんには、そうした匂いがなかったということだろう。
本書の冒頭で若林さんは「座右の銘」を書いている。「一に新しきこと、一に珍しきこと、一におもしろきこと」。原典は世阿弥の「花とおもしろきと珍しきと、この三つは同じなり」――「浅学菲才」ではないのである。
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