私たち現代人が話す日本語と、奈良時代から近世にかけての日本人が話していた日本語とは、どのように違っていたのか。録音機のない時代の古代日本語を「再生」することはできないが、さまざまな文献解釈や分析によって、江戸時代までに、それをほぼ成し遂げた学者たちがいた。
釘貫亨さんの『日本語の発音はどう変わってきたか』(中央公論新社)を読むと、その足取りを追体験することができる。専門用語も多く、けっこう歯ごたえのある内容だが、日本語に興味のある人にとっては、高校までに身についた古語の知識の根底にある日本語の構造が、にわかに納得のいくものになってくるだろう。
サブタイトルにもなっている蝶々(ちょうちょう)を、なぜ、昔は「てふてふ」と書いたのか。その理由を知ると、単なる綴り方の問題と考えてきた人にとっては驚きにも近いものになるかもしれない。
日本人が漢字を受け入れ、それを日本の言葉として使いこなすうちに、漢字の古代発音の影響を受け、万葉仮名を誕生させていったことはよく知られているが、その時代の母音が現代の「あいうえお」よりも多かったということも実証的に記されている。
また、現代の「は行」音(h)が、古代ではもともと「ぱ行」音(p)で、徐々に「ふぁ行」音(f)に変わり、現在に至ることも様々な証拠から述べられている。その証拠の中には戦国時代に日本にやってきたヨーロッパの宣教師たちが書き残した資料も含まれる。「母(はは)」は、その昔、「パパ」と呼ばれていたのだ。
現代の仮名遣いでも、「こんにちは」は、なぜ「こんにちわ」と綴らないのか。助詞の「へ」「を」はなぜ、「え」「お」ではないのか。小学校以来、当たり前のこととして習ってきた常識について、明確に答えられる人はいるだろうか。本書を読めば、こうした常識も過去にさかのぼって理解できる。現代の日本語には古代日本語のDNAが引き継がれているのである。
また、『源氏物語』を書いた紫式部の「原文」は、ほぼすべてが「ひらがな」だけで書かれていて、それを現代人が読む=発音することがいかに困難かも示される。現在、教科書をはじめ出版されている『源氏物語』は後世の藤原定家らが漢字仮名交じり文に、いわば「翻訳」したものだ。
それでもまだ難しいが、ひらがなだけの原文を目にし、意味のつかめない文字列を前にした時のめまいのような感覚に比べれば、「これは日本語だ」と感じる。総ひらがなの源氏物語は、現在の古文の音読とは相当に違った響きで読まれていただろうと思うと、興味深い。
多くの読者が本書を読んで「そうだったのか」と膝を打つ箇所は、誰もが日本語の基本として知っている「五十音図」の由来だろう。日本語の基本と書いたが、実はこの原型はインド仏教に由来する。「五十音図」を命名した江戸時代の真言宗の僧侶、契沖がインドや中国の文献を実証的に研究し、五十音図を完成させていく過程や、それを引き継いだ本居宣長が母音の構造を独自に解き明かし、古代語を再生していく下りは、本書中の白眉ともいえる内容だ。
「話し言葉」は書き言葉よりも早く変化していくとされる。実際、古い映画やドラマを見ていると、アクセントや単語などが現代とは違っていることに気づく。
広大なアジアの千年を超える歴史を通して、日本語という言葉は今も生き続け、変化し続けていることを知ることができる1冊である。
■釘貫亨さんプロフィール
くぎぬき・とおる/1954年和歌山県生まれ。1981年、東北大学大学院文学研究科国語学博士後期課程中退。1997年、博士(文学)。1982年富山大学講師、1986年助教授、1993年名古屋大学文学部助教授を経て、1997年同大学大学院文学研究科教授。名古屋大学名誉教授。専攻・日本語史。
主著『古代日本語の形態変化』(和泉書院、1996年)、『近世仮名遣い論の研究――五十音図と古代日本語音声の発見』(名古屋大学出版会、2007年)、『「国語学」の形成と水脈』(ひつじ書房、2013年)、『動詞派生と転成から見た古代日本語』(和泉書院、2019年)。
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