「生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。」
市川沙央さんのデビュー作『ハンチバック』(文藝春秋)は、いま話題の1冊。本作は第128回文學界新人賞受賞作で、今月19日に発表される第169回芥川賞の候補作でもある。
市川さんは筋疾患先天性ミオパチーという難病による症候性側弯症(しょうこうせいそくわんしょう)で、人工呼吸器・電動車椅子使用の当事者だ。中学2年生のころから、横になるときは人工呼吸器をつけている。20歳を過ぎて小説を書きはじめて20年以上、毎年公募に挑戦してきたという。
本作では、自身と同じ難病を抱える主人公の心の内を、率直に切れ味鋭く、ときにユーモラスに描いている。テーマも文章表現も新鮮で、ひと言でいうと強烈な作品だった。
「私は29年前から涅槃に生きている。(中略)地元中学の2年2組の教室の窓際で朦朧と意識を失った時からずっと。歩道に靴底を引き摺って歩くことをしなくなって、もうすぐ30年になる。」
井沢釈華(しゃか)は、先天性の遺伝性筋疾患のため、右肺を押し潰すかたちで背骨がS字に湾曲している。人工呼吸器と電動車椅子を使い、裕福な両親が遺したグループホームの10畳の自室で生活している。
某有名私大の通信課程に在籍しながら、コタツ記事(取材をせず、ネット情報などで構成する記事)のライターのバイトで稼いだお金を全額寄付している。ほかにもR18小説を書いたり、Twitterの裏アカで「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」......などとつぶやいたりしている。
釈華には、社会的なつながりがほとんどない。「心も、肌も、粘膜も、他者との摩擦を経験していない」のだ。眉をひそめられそうなツイートは、自身の「清い人生を自虐する代わりに吐いた思いつきの夢」だったが、釈華は気に入っていた。
「社会性のない呟きは、社会の空気のリズムを乱す。私の無様な跛行(はこう)みたいに人々の耳目をぎょっとさせる。(中略)せむし(ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。」
釈華はiPad miniを両手に挟んで読んだり書いたりしている。紙の本を読むことは、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかけるのだという。
目が見える、本が持てる、ページがめくれる、読書姿勢が保てる、書店へ自由に買いに行ける。この「5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモ」を、「その特権性に気づかない『本好き』たちの無知な傲慢さ」を、釈華は憎んでいた。
「本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。」
歩く、声を出す、本を読む。こうした1つ1つが、釈華にとっては当たり前にできることではなかった。入浴もそうだ。週2日、シャワー浴と洗髪がある。通常は同性のヘルパーが担当に入るが、女性ヘルパーがコロナに感染したことで、田中という30代の男性ヘルパーが釈華の担当に入った。釈華はそれを許可した。
「障害者は性的な存在ではない。社会が作ったその定義に私は同意した。自分に都合よく嘘を吐いて同意した。」
互いに興味などなく、淡々と洗われて終わった。しかし、その日から田中の態度が馴れ馴れしくなった。そして誰も読んでいないと思っていた釈華のツイートを、田中が読んでいたことが発覚する。
釈華は動揺した。「実生活ではうら若く真面目で寡黙な障害女性井沢釈華さん」を通していたからだ。そこで釈華は一計を案じ、田中にある取引を持ちかける――。
医療用語や学術用語が出てきたかと思えば、見たことのない若者言葉も出てくる。言葉選びのセンスが、なんとも個性的。評者はインタビュー記事を読んで市川さんのことを知り、今回初めて作品を読んだ。そして最初の1行から目が点になった。
障害というセンシティブなテーマを、重度障害当時者が描いた作品。ということで、硬めの文章で書かれた教科書的な作品を無意識のうちに想像していたようだ。しかし、その真逆だった。
本作には、健常者と障害者、強者と弱者、男性と女性、清らかな自分と清らかでない自分......などの2つを対比する描写が出てくる。自分のいる側だけで世界が完結した気になっていないか、と鋭く突っ込まれている気がした。
自分のことを「怪物」と思いながら、「人間」になることを夢見る釈華。田中に持ちかけた取引に、え......と一瞬固まったが、そこまでするほど切実だったのだろう。「人間」なのに「人間」になりたいと願う彼女の心の内を、覗いてみてほしい。
■市川沙央さんコメント
『ハンチバック』はこんな人におすすめです。
最近ちょっと寝不足の人。
最近ちょっと肩や腰が凝っている人。
最近ちょっと疲れ気味。
ごはんのお供はふりかけと納豆ならふりかけ派の人。(納豆派でも大丈夫です)
職場の人間関係に悩んでる人。
急に1億円とか空から降ってきたりしてほしいと思う人。
何でもいいから何か面白いこと起こらないかな、とずっと待ちつづけている人。
今日も明日も変わり映えのしない日々。
むしゃくしゃするし、モヤモヤしてる。
こういうときは面白い小説が読みたいぞ。
めちゃくちゃ刺激的なやつ。
見えている世界がひっくり返るくらいの、ね――。
2023年7月19日、本作が第169回芥川賞を受賞した。(※7月19日加筆)
■市川沙央さんプロフィール
いちかわ・さおう/1979年生まれ。早稲田大学人間科学部eスクール人間環境科学科卒業。筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側弯症および人工呼吸器使用・電動車椅子当事者。「ハンチバック」で第128回文學界新人賞を受賞し、デビュー。
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