「デクリネゾン」とは、フランス料理で「さまざまな調理方法でひとつの食材を生かすこと」だ。たとえば「豚のデクリネゾン」なら、豚のさまざまな部位を使って、異なる食感や味を作り出す。
金原ひとみさんの最新長編『デクリネゾン』(ホーム社)の表紙には、まさにさまざまな部位に切り分けられた豚の生肉や、内臓を使ったソーセージの写真が使われている。これからデクリネゾンに仕上げられるのだろう。何やらものものしい調理器具もあり、思わずドキッとする見た目だが......作品の中身は血生臭くないのでご安心を。
本作が描くのは、恋愛・家庭・仕事の間で揺れ動く一人の女性だ。アラフォーシングルマザーの小説家・志絵は、中学生の娘の理子と二人で暮らしている。志絵はこれまで、理子の父である最初の夫・吾郎と、二番目の夫・直人との離婚を経験し、今は21歳の大学生・蒼葉と付き合っている。
年の差のある恋愛が鮮烈に映るが、母としての娘への思いや、家族のあり方も深く描かれる。さらに、小説家の仕事や出版業界のあれこれがリアルに描かれるのも見どころだ。志絵という一人の女性を通して、恋愛小説・家族小説・お仕事小説の各要素が全てたっぷりと楽しめる。
蒼葉との恋愛を、志絵はこう表現する。
「彼は魔法にかかって盲目的な恋愛をしてるんです」
蒼葉は、好きなものをひたすら肯定する人物として描かれる。志絵に対しても、いわゆる"推し"のように全肯定して愛するのだ。志絵は内心、蒼葉の全肯定癖に弱さを感じ、「もっと批評的に関わってもらいたい」と思っているが、蒼葉にはそれができないのもわかっている。
さらに、年の差のせいで蒼葉の将来を奪っているのでは......と案じてしまう志絵と違って、蒼葉はまだ将来を漠然としか考えられず、とにかく志絵と結婚したいと思っている。志絵は蒼葉と愛し合いながらも、「わかり合えない」感覚を抱き続け、「このままでいいのか」と苦悩する。
蒼葉といる時間は何物にも代えがたく、幸福の最高地点にある。でもどこかで、彼に対してペルソナを操作している。誰しも、誰かに相対する時ある程度の操作をしている。それでも私のしている操作は、彼に対する絶望的なまでの裏切りになる気がしてならない。私はそんな人間じゃない、彼に好きだと言われるたび認められるたび肯定されるたびそう思う。
志絵が蒼葉に見せている自分は、ほんの一部だ。「女」としての顔だけでなく、理子の「母」としての顔、吾郎や直人の「元妻」としての顔、そして「小説家」として働くときの顔を持っている。決してもう若くはない志絵は、「女」としての恋愛だけに突っ走ることはできない。それでも、つかの間現実を忘れる魔法の時間として、蒼葉との恋愛に縋ってもいる。
物語はやがてコロナ禍に突入し、仕事相手とも蒼葉とも気軽に会いづらくなってくる。加えて、蒼葉の両親が志絵を良く思っておらず、実家にいづらいという状況も。蒼葉は、志絵の家で一緒に暮らせないかと打診する。
当然娘の理子との同居になると思い、志絵が理子に相談すると、理子は「ママが蒼葉くんと住むなら、私はパパ(吾郎)と住む」と言い出す。驚いて吾郎に聞くと、吾郎はいたって冷静で「ちょっと前からこうなるんじゃないかと思っていた」と言う。なんと、今の吾郎が一人で暮らしている部屋は「理子が住みたくなったら住めるように」と、理子と二人で不動産屋のサイトを見て決めたそうなのだ。理子はずっと自分の手で育て上げてきたと思っていたが、「彼女の何も見ていなかったのかもしれない」と志絵は気づかされる。
何故か無根拠に、理子は私が何をしても誰と恋愛しても私について来てくれるものと思っていた。
結局理子は吾郎の家で暮らし始め、志絵と蒼葉は二人暮らしを始める。恋愛が家庭の形を変え、「母」としての志絵の感情が揺らぐ。
さらに、仕事も無関係ではない。これまで一切志絵の仕事に触れてこなかった蒼葉が、家で志絵の執筆風景を見守るようになり、志絵の忙しさから二人の関係にも変化が起き始め......。恋愛・家庭・仕事、別々の「ペルソナ」を使い分けていながらも、どれ一つとして個別に切り離すことはできず、一方で変化があると、必ず他の面にも影響が及んでいく。
一筋縄ではいかない人間関係を描きながら、それでも悲観的な作品になっていないのは、登場人物がみな、ある意味で仲良しだからだろう。吾郎も直人も離婚してはいるが志絵・理子との関係は切れておらず、理子はどちらも「パパ」と呼んで頻繁に行き来している。理子は蒼葉に対しても、戸惑いを見せながらも拒絶することなく、彼女なりの距離感を模索する。読者としては、理子の気丈さがけなげで、読みながら感心してしまった。
ママと、二人のパパと、ママの新しい恋人。言葉にすると複雑な関係に思えるが、彼らはお互いの距離を少しずつ測りながら、ときにはぶつかり、歩み寄って、"新しい家族"を編んでいく。
志絵に加えて、同世代の作家仲間の夫婦関係や、出版社の担当編集者など、それぞれのキャラクターの背景が作品に奥行きを与えている。誰もが表立っては言えない事情を抱えながらも、やりたいこと、欲しいもの、守りたいものに向かってとことん貪欲に生きていく。
最後に、大事なことを一つお伝えしておこう。本書は恋愛小説・家族小説・お仕事小説でありながら、とても上質なグルメ小説だ。志絵が理子に作るキーマカレーに始まり、出版社の打ち上げの海鮮焼きに生牡蠣、作家仲間と囲む焼肉......おいしそうな食事の描写がこれでもかと登場し、飯テロされ続けること間違いなし。本書を読むときには、必ず片手でつまめるおやつを用意してほしい。
■金原ひとみ(かねはら・ひとみ)さん
1983年東京生まれ。2003年『蛇にピアス』で第27回すばる文学賞を受賞。04年、同作で第130回芥川賞を受賞。ベストセラーとなり、各国で翻訳出版される。10年『TRIP TRAP』で第27回織田作之助賞を受賞。12年『マザーズ』で第22回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。20年『アタラクシア』で第5回渡辺淳一文学賞を受賞。21年『アンソーシャル ディスタンス』で第57回谷崎潤一郎賞を受賞。他『パリの砂漠、東京の蜃気楼』、『ミーツ・ザ・ワールド』等がある。
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