「この恋が永遠でないことを知っている。けれど感じることができるのは現在(いま)だけだ。」
2020年に『アーモンド』で、2022年に『三十の反撃』で本屋大賞翻訳小説部門第1位を受賞したソン・ウォンピョンさん。『アーモンド』では感情がわからず「怪物」と呼ばれた少年が「愛」によって変わるまでが、『三十の反撃』では正社員を目指す主人公が社会への小さな反撃をとおして自分への「愛」を取り戻すまでが描かれていた。
待望の第3弾『プリズム』(祥伝社)は、男女4人の「揺れ動く心の移ろい」を繊細にとらえた「大人の恋の物語」。本作は著者にとって初の恋愛小説で、1年間の季節の移ろいをたどりながら、登場人物たちの成熟していく姿が描かれている。
「恋愛小説とはいっても、登場人物の恋愛の成否ばかりを詮索する話は書きたくなかった。彼らは、愛というありふれてはいるが特別な感情を経験し、自分を押し広げ、拡張させて世の中に向かって手を伸ばす。それが私の描きたかった愛の本質と効果でもあった」(「作者の言葉」より)
ひとつの恋が終わると、すぐに次の「愛する人」を見つけてしまうイェジン。「いい人」とよく言われるものの、他人と一定の距離を保つドウォン。元夫と不毛な逢瀬を重ねるジェイン。自らを危険人物とみなし、恋愛とは無縁な人生を歩んできたホゲ。
同じ建物で働くイェジンとドウォンは休憩時間に知り合い、ジェインのベーカリーでホゲはアルバイトをしている。2つの物語が並行して進むのかと思いきや、ある時4人は偶然出会う。それはドウォンとジェインにとって、10年ぶりの再会だった――。
四角関係の構図をとりながら、4人が順に語り手となり、その心の内が語られる。
「健全な社会の構成員のように見えて、どこか欠陥があって、深く知るとむしろがっかりするかもしれない人たち。平凡だが描き出すのが難しい彼らの心を、淡々と解き明かしてみたかった」(「作者の言葉」より)
韓国・ソウルの街中で、一生に一度しか出会わない人たちが毎日のように行き交っている。その中でイェジンはドウォンと出会い、好きになった。
以前はすべてのことに原因があると思っていたが、年齢とともに偶然や運を信じるようになった。人と人との出会いも、ただの偶然。「時には意外な組み合わせや似ても似つかないもの同士が出会って、この上なく美しい一つになる」とイェジンは思っている。
一方のドウォンは、「二人のあいだに何の感情もない」から心地いい。毎日昼休みに短い時間会うだけの、これくらいの間隔を保った平行線が「ちょうどいい距離」と考えていた。だからイェジンの好意を感知してからというもの、ドウォンの心は退き気味に......。
そう、イェジンは片思い中なのだ。ドウォンに対する感情はどんどん強くなっていく。ところが、ある出来事をきっかけにドウォンからはっきりと線が引かれてしまう。疎外されたショックとともに、イェジンの中にある疑念が生まれた。
「本当に『その人』が好きだったんだろうか。実は、ただ別れと喪失を忘れて『新しいときめき』という感情に浸っているのが楽しかっただけなのではないか。永遠に続くと思われた夏はいつの間にかぐんと押し流されていき、日増しに秋の色が濃くなっていた」
イェジンから退いたドウォンの心は、再会したジェインに向かっていた。ドウォンとジェイン、それぞれ「秘密」にしておきたい過去はありながら、ふたりは「ずっと前からこうなることが決まっていたような、慎重な、でも熱い恋」をする関係になった。
しかし、どんなに幸せの絶頂にいる時にも、ドウォンは未来を見ていた。「ジェインと共にする時間の消滅を頭の中で目撃」していた。そんなドウォンに、ジェインは言う。
「『今は今、ただそれだけよ』
やがて終わりは来るだろう。しかし感じることができるのは現在だけだ。ドウォンは、現在の終わりが遥か遠くにあると思うことにした」
表紙には、ピラミッド形のプリズムをじっと見つめるイェジンが描かれている。暗闇では使い道のないただのガラスの塊。それが日射しと出会うと、光を虹に変える。「誰かを輝かせることのできる、輝く人になりたい」とイェジンは思う。
甘さはほどほどで、苦みがある。これが「大人の」恋愛小説というものか。こんなふうに感じたことがあるなと、読みながらピンとくる表現がいくつもあった。見落としてしまいそうな心の機微を、どうしてこんなにも的確に言葉にできるのか。矢島暁子さんの訳もすばらしく、1文1文を楽しませてもらった。
「色あいはそれぞれ異なるが、『愛の三部作』と呼んでもよいような『アーモンド』、『三十の反撃』、そして『プリズム』。現代を生きる私たちにとって、人を愛するということを改めて考えるきっかけになればと心から願っている」(「訳者あとがき」より)
■ソン・ウォンピョンさんプロフィール
ソウル生まれ。西江大学で社会学と哲学を学び、韓国映画アカデミーで映画演出を専攻。多数の短編映画の脚本、演出を手掛け、「シネ21映画評論賞」、「科学技術創作文芸・シナリオシノプシス部門」を受賞。2020年には長編映画監督作品『侵入者』(邦題『食われる家族』) が公開された。文壇デビュー作となった長編小説『アーモンド』(2017)は、第10回チャンビ青少年文学賞を受賞。続いて出版された『三十の反撃』(2017)は、第5回済州4・3平和文学賞を受賞している。ほかに、短編小説集「他人の家』(2021)、児童書『威風堂々キツネの尻尾(1)、(2)』(2021、2022)がある。邦訳版『アーモンド』(矢島暁子訳、祥伝社)で2020年本屋大賞翻訳小説部門第1位を、続く邦訳版『三十の反撃』(矢島暁子訳、祥伝社)で2022年本屋大賞翻訳小説部門第1位を受賞。
■矢島暁子さんプロフィール
学習院大学文学部卒業。高麗大学大学院国語国文学科修士課程で国語学を専攻。訳書に『アーモンド』、『三十の反撃』のほか、チョ・ナムジュ『ミカンの味』(朝日新聞出版)、イ・コンニム『世界を超えて私はあなたに会いに行く』(KADOKAWA)、イ・ギュテ『韓国人のこころとくらし――「チンダルレの花」と「アリラン」』(彩流社)、キム・エランほか『目の眩んだ者たちの国家』(新泉社)、洪宗善ほか『世界の中のハングル』(三省堂)がある。
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