北海道根室を舞台とした河﨑秋子さんの大河小説『絞め殺しの樹』は、題名から殺人をモチーフとした小説と思う人がいるかも知れない。私もその一人だった。しかし、多くの人の死は綴られるが、殺人そのものが起きるわけではない。
題名に込められている意味は、人が生きていくということは過酷な人間の業のからまりのようなものであり、読者に自分の越し方行く末を見つめさせる迫力を秘めている。すでに多くの文学賞を受賞している河﨑さんだが、本作が2022年下半期の直木賞候補となり、新たな読者を獲得していることだろう。
「第一部」は昭和の初めに根室で生まれたミサエが主人公だ。昭和前期を中心とするミサエは、現代では考えられない過酷な少女期の日々を過ごす。実の親がおらず、10歳で屯田兵出身の酪農家に引き取られるが、実は使用人として、むしろ奴隷のように使役するのが目的だった。現代なら、児童労働と児童虐待の両方を強いられているようなもので、酪農家の同じ年頃の息子と娘からも虐めを受ける。小説自体はフィクションだが、80年ほど前の日本にあった現実である。
10歳の女の子が根室の真冬に廊下でしか寝させてもらえないなど、読んでいて、そこまで頑張るな、もっと反抗しろ、いや逃げろ、と心の中で幼いミサエに言いたくなる場面が何度もあった。しかし、物心つくころから信じられる親の愛情を知らずに育ったミサエにとって、生きることは己を虐げるものへの服従でしかなかった。
そのミサエの健気さは、彼女を暗闇から救い上げることもあれば、再び、理不尽な運命の渦に引きずりこんでいく原因ともなっていく。さらに、第二部では、ミサエが生んだ子でありながら、それとは知らずに育つ雄介にも、同じ業が引き継がれる。
ミサエも、雄介も、その周りには「いたぶり」や「いじめ」を楽しみとしか考えていないような人たちが描かれる。実は、その人間たちも過去に、同じような立場にあったことも示されていくが、彼らにその自覚はない。
ミサエも雄介も、それらの理不尽な扱いにひたすら耐え、自分の努力に変えるだけで、自分が受けた扱いを弱いものに向けることはしない。ただ、保健婦の資格を取り、地域に貢献することに情熱を燃やすミサエは自分の娘にだけは、自身の境遇と比較して厳しい躾を課そうとする。それが悲劇の伏線となる。
この小説のもう一つのテーマは善意の仮面である。逆境にあるミサエや雄介の心をとろけさせるような言葉で近づく人間が、最終的には、己の欲望を満たすのに利用しただけだったということが続く。そうしてミサエは、多くの善意を信じ、裏切られ、最終的には理不尽な仕打ちを受け入れるしかないなかで死んでいく。ミサエや雄介を追い込む偽善者に比べれば、綺麗ごとは一言も言わず、当たり前のようにミサエをこき使う酪農家の夫婦のほうがまっとうにも思えてくる。
絶望の中でミサエが見た夢の中に、木と有刺鉄線をめぐり、こういう一節がある。
「その有刺鉄線は、しばしば、成長した木の幹に吞み込まれていた。/傷つけられたのは木のほうなのに、異物を呑み込み、包み、何事もなかったかのように枝葉を広げていたのだ。樹皮と一体化してしまった有刺鉄線は錆び、ぼろぼろに朽ちていた」
このモチーフは、第二部で、実体として姿を現し、第一部では秘められていたミサエの出生の秘密が最終場面で明かされる。
第二部の主人公、雄介が生きるのも根室だが、時代は次第に現代に近くなる。実母が酷使された家に、生まれてすぐに養子となった雄介は、次第に自分の実母が誰なのか、さらにはミサエも知らなかったミサエの出生の真相を残酷な形で知らされることになる。
人生を諦め、醒めきっていた雄介が、真相を知ったうえで、人はお互いに傷付け合って平等に死んでいくことを悟り、自分を呪ってきた叔父、利用してきた育ての父に、それぞれ投げつける言葉が突き刺さる。 善であれ悪であれ、業を背負って生き死んでいく人間として、雄介が自分の生を生き抜く覚悟を示すことで小説は終わる。
本書の章名は、第一部、第二部を共通して、「捻じ花」「蔓梅擬き(つるうめもどき)」「山葡萄」「無花果」「菩提樹」と植物名となっている。小説の題名である「絞め殺しの樹」も実際の樹の名前で、そこに込められた意味は、この植物名の章を追うごとに明らかになっていく。
そしてもうひとつの共通項は、すべての章で白猫が主人公の傍らにいることだ。根室で血をつないでいく白猫たちが、この物語の主人公の二人を見守り続けているようで、人間関係の暗い地獄に舞い降りた菩薩のようにも思えた。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?